2006年04月15日

コモンーウェルスと自然権?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第14章(P218)で
 『「人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の
  人びともまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利
  を、すすんですてるべきであり、他の人びとに対しては、かれらがか
  れ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのとおなじおおきさ
  の、自由をもつことで満足すべきである。」(中略)しかし、もし他
  の人びとがかれらの権利を、かれとおなじように放棄しようとはしな
  いならば、そのときはだれにとっても、自分の権利をすてるべき理由
  がない。(中略)これは、「他人が自分に対してしてくれるように、
  あなたがともめるすべてのことを、あなたが他人に対しておこなえ」
  という、あの福音の法でる。そして、「あなたに対してなされるのを
  欲しないことを、他人に対してしてはならない」という、あのすべて
  の人間の法である。』
と書いとります。

続きを読む
posted by 浅谷龍彦 at 07:17| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月12日

コモンーウェルスの種類?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第19章(P52)で
 『代表がひとりの人であるばあいには、このコモンーウェルスは君主政治
  であり、それがそこにあつまってくる意志をもつすべてのものの合議体
  であるばあいには、それは民主政治すなわち民衆的コモンーウェルスで
  あり、それが一部分だけの合議体であるばあいには、それは貴族政治と
  よばれる。』
と書いとります。

またスピノザは『国家論』の第11章(P187)で民主国家について
 『最後に私は第三の国家、完全な絶対統治の国家へ移る。これを我々は民
  主国家と名づける。(中略)貴族国家においては、このあるいはかの人
  間が貴族に選ばれるのは単に最高会議の意志と自由選任とにみに依存す
  る。したがって何びとも投票の権利ならびに国家の官職に就く権利を生
  得的には持たず、また何びともこういう権利を法的に要求しえない。と
  ころが今問題とする国家においてはそうではないのである。なぜならこ
  こではすべて、国民たる両親を持つ者、あるいは国土内に生まれついた
  者、あるいは国家のため功績のあった者、あるいは他の諸理由から法律
  によって国民権を与えられるべき者、これらすべての者ー繰り返して言
  うがーは最高会議における投票の権利ならびに国家の官職に就く資格を
  当然要求することができ、犯罪または貢献喪失のためにでなければこれ
  を彼らに拒否しえないからである。』
と書いとります。

なるほどねえ。でも古い話やねえ。なんつっても1651年と1677年の本。
でも微妙に新鮮?
posted by 浅谷龍彦 at 22:59| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月10日

コモンーウェルス?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第17章(P32-P34)で
 『《コモンーウェルスの生成》
  かれらを外国人の侵入や相互の侵害から防衛し、それによってかれら
  の安全を保証して、かれらが自己の勤労と土地の生産物によって自己
  をやしない、満足して生活できるようにするという、このような能力
  のある共通の権力を樹立するための、ただひとつの道は、かれらのす
  べての権力と強さとを、ひとりの人間に与え、または、多数意見によっ
  てすべての意志をひとつの意志とすることができるような、人びとの
  ひとつの合議体に与えることであって、そのことは、つぎのようにい
  うのとおなじである。すなわち、ひとりの人間または人びとの合議体
  を任命して、自分たちの人格をになわせ、また、こうして各人の人格
  をになうものが、共通の平和と安全に関することがについて、みずか
  ら行為し、あるいは他人に行為させるあらゆることを、各人は自己の
  ものとし、かつ、かれがその本人であることを承認し、そして、ここ
  において各人は、かれらの意志をかれの意志に、かれらの判断をかれ
  の判断に、したがわせるということである。(中略)この統一は、各
  人が各人にむかってつぎのようにいうかのような、各人対各人の信約
  によってつくられる。すなわち、「私は、この人、またこの人びとの
  この合議体を権威づけ、それに自己を統治する私の権利を、与えるが、
  それはあなたもおなじようにして、あなたの権利をかれに与え、かれ
  のすべての行為を権威づけるという、条件においてである。」(中略)

続きを読む
posted by 浅谷龍彦 at 00:53| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月04日

社会的動物?

スピノザは『国家論』の第15章(P28,29)で
 『自然状態においては各人が自己を他の圧迫から防ぎうる間だけ自己の
  権利のもとにあるのであり、また各人単独ではすべての人々の圧迫か
  ら身を防ぐことが困難なのであるから、この帰結として、人間の自然
  権は、それが単に各人きりのものでありそして各人の力によって決定
  される間は無に等しく、現実においてよりもむしろ空想において存す
  るにすぎないということになる。なぜなら、人々はそれを保持するの
  に何の確実性も持たないからである。(中略)
  これらの事情に加えて、人間というものは相互の援助なしには、生活
  を支え精神を涵養することがほとんどできないということがある。以
  上から我々はこう結論する。人類に固有なものとしての自然権は、人
  間が共同の権利を持ち、住みかつ耕しうる土地をともどもに確保し、
  自己を守り、あらゆる暴力を排除し、そしてすべての人々の共同の意
  志に従って生活しうる場合においてのみ考えられるのである、と。
  (中略)
  それでもしスコラ学者たちが、人間は自然状態においてはほとんど自
  己の権利のもとにありえないという理由から人間を社会的動物を名づ
  けようとしたのだとすれば、私は彼らに反対すべきものは何も持たな
  いのである。 』
と書いとります。

自分だけじゃ身は守れないっちゅうことやね。(笑)
posted by 浅谷龍彦 at 23:41| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月30日

自然状態?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第13章(P210-P214)で
 『《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
  これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
  共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
  にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
  ある。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、
  戦闘によってあらそうという意志が十分に知られている一連の時間にある。
  (中略)
  そのような状態においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の
  果実が確実ではないからであって、したがって土地の耕作はない。
  (中略)
  人間の諸意欲およびその他の諸情念は、それら自体では罪ではない。それ
  らの情念からでてくる諸行為も、人びとが、それらを禁止する法を知るま
  では、おなじく罪ではなく、そのことは、諸法がつくられるまえには、か
  れらが知りえないし、どんな法も、それをつくるべき人格についてかれら
  が同意するまでは、つくられえないのである。
  (中略)
  《このような戦争においては、なにごとも不正ではない》
  各人の各人に対するこの戦争から、なにごとも不正ではありえないという
  こともまた、帰結される。正邪 Right and Wrong と正不正 Justice and
  Injustice の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力のない
  ところには、法はなく、法がないところには、不正はない。(中略)そこ
  には所有 Propriety も支配 Dominion もなく、私のものとあなたのもの
  との区別もなくて、各人が獲得しうるものだけが、しかもかれらがそれを
  保持しうるかぎり、かれのものなのである。』
と書いとります。

人は自然状態では、法律もなく、なんでもありありで、だれのものもかれの
ものもない状況にある、ということのようです。
posted by 浅谷龍彦 at 22:04| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

自然権?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第14章(P216)で
 『《自然の権利とは何か》
  著作者たちがふつうに自然権とよぶ自然の権利 Right of Nature とは、
  各人が、かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、
  かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用すること』
 『《自然の法とは何か》
  自然の法 Law of Nature とは、理性によって発見された戒律すなわち
  一般法則であって、それによって人は、かれの生命にとって破壊的であ
  ること、あるいはそれを維持する手段を除去するようなことを、おこな
  うのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しうるとかれが考える
  ことを、回避するのを禁じられる。』
と書いとります。

またスピノザは『国家論』の第2章(P18,19,24)で
 『自然物は、存在ならびに活動に対して力を持っているのに相当するだけ
  の権利を自然のままで持っているということが結論される』
 『また各個物の自然権は、その物の力が及ぶ所まで及ぶ。ゆえに各人が自
  己の本性の諸法則に従って行動することは、すべて最高の自然権に従っ
  て行動しているのであり、そして各人は、その力のなしうるのに相当す
  るだけの権利を自然に対して持っているのである。』
 『あらゆる暴力を排除し、自己への加害を自己の考えに従って復讐しうる
  限りにおいて、およそ自己の意向に従って生活しうる限りにおいて、自
  己の権利のもとにあるということが帰結される。』
と書いとります。

自分の身は自分で守れ。あるいは自分の身を守る権利ってことかな?
posted by 浅谷龍彦 at 03:14| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

人はなぜ同じものを望むのか?

柄谷行人は『言葉と悲劇』(P38-P40)で
 『ヘーゲルは、欲望とは他人の欲望だといっています。つまり、欲望とは他人
  の承認を得たいという欲望である、ということですね。 (中略)
  基本的にわれわれは欲望の中にあるのであり、いいかえれば、すでにそこに
  他者が介在しているのです。私たちは、模倣的であってはいけない、オリジ
  ナルでなきゃいけない、自発的じゃなきゃいけないなどと言います。しかし、
  われわれが何かを目指すときには、誰かがいつもモデルとしてあるわけです。
  それは、われわれの欲望が他人に媒介されていることと同じです。自発性・
  主体性というけれども、自己や主体というものがすでに他者との関係を繰り
  こむことによって形成されている、といってもよいでしょう。』
と書いとります。

ということで、人と同じものを望むなってのは無理っちゅうことのようです。
posted by 浅谷龍彦 at 14:06| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

能力の平等?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第13章(P207-P208)で
 『《人びとは生まれながら平等である》
  自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程
  度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神の
  うごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるとしても、すべてをいっ
  しょにして考えれば、人と人とのちがいは、ある人がそのちがいにもとづ
  いて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張でき
  るほど顕著なものではない、というほどなのである。(中略)

  《平等から不信が生じる》
  能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の
  平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、
  それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとす
  ると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的への途上におい
  て、たがいに相手をほろぼすか屈服させるかしようと努力する。』
と書いとります。

ホッブスにとっては、普通人々が主張し合うほど各人に総合的な能力の違いは
見出せず、したがって互いに望むものを望むことに問題はない。だが各人が同
じものを求める場合、そこに争いが発生してしまう、ということのようです。
posted by 浅谷龍彦 at 01:03| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

独裁会社?

政治の独裁は世界中で批判されるけど会社はどうなの?
結構多いでしょう独裁(ワンマン)企業。

↓でも違う会社もあるみたい。
株式会社21
http://www.two-one.co.jp/a21/
posted by 浅谷龍彦 at 15:41| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

自由の中身?

カレーパンの中身はカレー。
肉まんの中身は肉。
自由の中身ってなに?
posted by 浅谷龍彦 at 12:46| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

支配されたくないし、したくもない?

これは『EV.cafe』(P220-P221)の中にある村上龍、坂本龍一、柄谷行人
の鼎談(1984.8.3)での会話。

坂本:だけど、龍ってわりとドラッグとか興味あるし、そういう、ま、
一種の神秘体験っていうのを持ってるわりに神秘主義に行かないっ
ていうのは、面白いね。何が抑制させてるわけ?
(中略)

村上;いや、神秘主義に行っちゃうと、何も楽しくないような感じがする
   んだよ。例えば何かすごく陳腐な楽しみってあるでしょう、
   サイパンに行ってダイビングしたり、女の子とプールで泳いだり、
   ウィンド・サーフィンしたりっていう、神秘主義を信じちゃうとね、
   それさえも何か楽しくなくなるような...。
   これは神が、何か...、そう思うとさ。

坂本:神秘主義は、神がっていうんじゃないけどね。

村上:そうじゃないんだけど、何かそういうのが楽しくなくなっちゃう
   ような感じがするんだよね。

坂本:だけど、ナチスなんかも楽しかったんじゃないの?

柄谷:すぐに人を支配する楽しみに移るから、すごく楽しんですよ。

村上:何かポップとは違う、遠い感じがするんですね。

柄谷:やっぱり民主主義者だね。
   アメリカによって与えられた戦後民主主義だよ。

坂本:そうそう。

村上:坂本、そうそうとか言ってるけど、そんなに変わんないんじゃない?

坂本:いや、全くそのとおり。つまり、人なんか支配したくないし、
   支配されたくもないっていうのが、とても強いね。

柄谷:僕の基本的な政治理念みたいなものはそういうことだね。
posted by 浅谷龍彦 at 16:08| 千葉 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

不自由になる自由?

生きるために仕事してるのか?
仕事のために生きてるのか?
どっちだろ?
posted by 浅谷龍彦 at 01:25| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月31日

経済的自由主義?

売る人と買う人どっちが強い?
買う人でしょ。

売れないミュージシャン...
posted by 浅谷龍彦 at 23:19| 千葉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

自由の種類?

柄谷行人は『戦前の思考』のP110-P112で
 『たとえば、「自由」という思想も、本来哲学から来たのではなく、
  経済から来たもので戸坂潤は『日本イデオロギー論』(昭和10年)
  のなかで、こういっています。《自由主義は云うまでもなく最初
  経済的自由主義として発生した。(中略)この自由貿易と自由競争
  との経済政策理論としての経済的自由主義は、やがて政治的自由
  主義を産み、(中略)市民の社会的身分としての自由と平等と、
  それに基く特定の政治観念であるデモクラシー(ブルジョア民主
  主義)とが、この政治的自由主義の内容をなしている》。(中略)
  《だがこうした経済的・政治的・自由主義から、(中略)第三の
  自由主義の部面が発生する。便宜上之を文化的自由主義と呼ぶ
  ことにしよう》。
  戸坂潤は、「この自由主義の意味そのものが文学的なのであって、
  (中略)こうした文学的自由主義は、一見以外にもファシズムに
  通じる道を有っている」といっています。これはとても重要な
  分析だと思います。』
と書いとります。

てなわけで、今普通いわれる「自由」とは、ここでいう「文学的
自由主義」のことになると思いますが、「自由」を考える時に経済的、
政治的、実利的な視点を抜きに考えてしまうと、逆に「不自由」な
ファシズムを招く危険があるってことのようです。
気を付けよ。

経済的自由主義(capitalism)-政治的自由主義(state)-文学的自由主義(nation)?
posted by 浅谷龍彦 at 01:36| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月05日

自由は私有?

柄谷行人は『戦前の思考』のP71で
 『ここで少し極端にいうと、「自由」とは私的所有権ということに
  なります。(中略)たとえば、「職業の自由」は、各人が自分の
  労働力を私有するということですし、「表現の自由」は同時に、
  表現を私有すること(著作権)と切り離せない。(中略)
  というわけで、私的所有権は、あらゆる近代的な「自由」を凝縮
  するものです。(中略)また、私的所有権を制限すると、必ず
  「自由」は制限されます。』
と書いとります。
posted by 浅谷龍彦 at 23:03| 千葉 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

ありえる?

「自由な軍隊」ってあり?
「民主的な軍隊」は?
「民主的な軍隊」はありえなくもない気がするけど
「自由な軍隊」はありえないっしょ?
posted by 浅谷龍彦 at 16:27| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月03日

freedomとliberty

中学生の時に買った三省堂の『新クラウン英和辞典』のlibertyの説明によると
 『freedomが「全く抑圧のない状態」であるのに対し、libertyには
  「解放された自由・好むがままに行動できる自由」の意味が含まれる』
とのこと。

柄谷行人は
『戦前の思考』のP69で
 『「リバティ」というのは、他人の恣意的な意志に拘束されないという
  意味です。もっと具体的にいえば、それは権力、特に国家権力の制限を
  意味します。』

『倫理21』のP11で
 『英語ではliberty(政治的自由)とfreedom(自由)という区別がありますが、
  事実上、同じような意味で使われています。』
と書いとります。
posted by 浅谷龍彦 at 20:23| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月30日

自由の語源?

『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/
によると「自由」って言葉は、福沢諭吉が
「liberty」の訳語として作ったらしい。
初めは「御免」にするつもりだったらしい。

ってことは「freedom」の訳語はない?
「freedom」は「自由」じゃない?

さらに仏教用語としては
 『仏教用語での自由は、「自に由る」(おのずからに、よる)の
  意味から無我や自己責任の概念で使われる。』
とのこと。
posted by 浅谷龍彦 at 02:03| 千葉 | Comment(8) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月29日

大切やね。

なにもしない自由。
なにも言わない自由。
ブログなんて作らない自由。
posted by 浅谷龍彦 at 02:17| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。