2006年08月17日

人民と投票?

モンテスキューは『法の精神』の第1部、第2編(P52)で
 『民主政においては、人民はある点では君主であり、ある点では臣民
  である。人民はその意思である投票によってのみ君主でありうる。
  最高権力者の意思は最高権力者そのものである。それゆえ、投票の
  権利を確立する法律がこの政体においては基本的である。だからこ
  こでは、投票がどのようにして、誰によって、誰に対して、なにに
  基づいて行なわれるべきかを規定することは、君主政において、誰
  が君主であり、どのような仕方で彼は統治するべきかを知ることが
  重要であるのと同じように重要である。』
と書いとります。

また『法の精神』の第1部、第2編(P57)で
 『投票用紙を投ずる仕方を定める法律もまた、民主政では基本的な法
  律である。投票が公開であるべきか、秘密であるべきかは大問題で
  ある。(中略)いうまでもなく、人民が票を投ずる場合には、その
  投票は公開でなければならず、これは民主政の基本的な法律とみな
  されるべきである。(中略)しかしながら、貴族政において、貴族
  団体が投票をする場合、あるいは、民主政において元老院が投票を
  する場合には、問題となるのはただ徒党を組んで争うことを防止す
  ることでしかないから、投票はいくら秘密にしても秘密にしすぎる
  ということはないであろう。』
と書いとります。

自由のためには投票は秘密じゃないとね。全て。絶対に。
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 23:25| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月11日

国家の収入?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第13編(P384)で
 『国家の収入とは、各公民が自分の財産の他の部分の安全を確保する
  ために、またそれを心地よく享受するために供与する公民の財産の
  一部である。これらの収入を正しく定めるためには、国家の必要と
  公民の必要とに考慮をはらわなければならない。国家の仮想の必要
  のために、人民の現実の必要の一部を奪ってはならない。』
と書いとります。

また『法の精神』の第2部、第13編(P385-P386)で
 『一国が富めば、すべての人の心に大望を抱かせ、貧困になれば、す
  べての人の心に絶望を生じさせる。大望は労働によって刺激され、
  絶望は怠惰によって慰められるのである。(中略)
  自然は人間に対して公正である。自然は人間の労苦に対して報いる。
  自然は人間を働き者にする。なぜなら、自然はより大きな労働によ
  りより大きな報償を結びつけるからである。しかし、もしも恣意的
  権力が自然のその報償を奪うならば、人はふたたび労働を嫌い、無
  為を唯一の善のように思うのである。』
と書いとります。

お小遣いは少しだけ渡せっちゅうことやね。
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 23:24| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月01日

執行権力と予算?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P304-P305)で
 『執行権力が合意によらないで公金の取り立てについて決定するなら
  ば、もはや自由は存在しないであろう。なぜなら、執行権力が立法
  の最も重要な問題で立法者となるからである。
  立法権力が公金の取り立てについて一年ごとでなく永久的に決定す
  るならば、立法権力はその自由を失う危険を冒す。なぜなら、執行
  権力はもはや立法権力に依存しなくなるからである。そして、この
  ような永久的な権利が保持されてしまえば、その権利を自分で得た
  のか他人から得たのかは、ほとんど関係がなくなる。執行権力に委
  ねるべき陸海軍について、立法権力が一年ごとでなく永久的に決定
  するならば、事態は同様である。』

お小遣いは少しづつ渡せっちゅうことやね。
posted by 浅谷龍彦 at 22:54| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月31日

立法権力と執行権力?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P300-P3001)で
 『執行権力が立法府の企図を抑止する権利をもたないならば、立法府
  は専制的となろう。なぜなら、立法府は考えうるすべての権力を自
  己に与えることができるので、他の権力を滅ぼすであろうから。
  しかし、立法権力は逆に執行権力を抑止する権能をもつべきではな
  い。なぜなら、執行にはその本性上限界があり、執行を制限するこ
  とは無益だからである。その上、執行権力は一時的な事柄について
  行使されるのが常だからである。(中略)
  しかし、自由な国家においては、立法権力は執行権力を抑止する権
  利をもつべきではないにしても、自分が作った法律がどのような仕
  方で執行されたかを審査する権能をもっているし、またもつべきで
  ある。』

立法府は執行内容をチェックしろっちゅうことやね。
posted by 浅谷龍彦 at 00:58| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月24日

執行権力?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P298-P299)で
 『執行権力は君主の手中におかれるべきである。政体のこの部分は、
  ほとんど常に即時の行動を必要とするので、多くの人よりも一人に
  よって、よりよく処理されるからである。これに反して、立法権力
  に属することは、一人よりも多くの人によって、よりよく決められ
  ることがしばしばである。』
と書いとります。

一人でもいいけど替えられないとね。
posted by 浅谷龍彦 at 22:10| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月22日

民主政と民衆?

プル−ドンは『連合の原理』の第3章(P344-P345)で
 『自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治の統治のそれよりも
  複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではな
  い実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。
  ほとんど常に自由な統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義
  を好む大衆によって貴族政治とみなされてきた。ここから進歩的な人
  間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生
  ずる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求して
  いるのは、大衆の運命の改善のためである。したがって彼らが支持を
  求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への
  不信ないし無関心によって、自由の障害となるのも常に民衆なのであ
  る。』
と書いとります。

難しいことはようわからんっちゅうことやね。
posted by 浅谷龍彦 at 02:13| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

立法権力と代表制?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P295-P296)で
 『自由な国家においては、自由な魂をもつとみなされるあらゆる人間
  が自分自身によって支配されるべきであるから、人民が一団となっ
  て立法権力をもつべきであろう。しかし、それは強大な諸国家では
  不可能であり、弱小の諸国家では多くの不都合を免れがたいので、
  人民は自分自身でなしえないことをすべてその代表者を通じて行な
  わねばならない。
  人は自分の都市の必要を他の都市のそれよりもはるかによく知って
  いるし、自分の隣人の能力を隣人でない同国人のそれよりもよりよ
  く判断する。それゆえ、立法府の構成員は国民という団体から一般
  的に選出されるべきでなく、むしろ、主要な場所ごとに、住民がみ
  ずからのために一人の代表者を選ぶのが適切である。
  代表者たちのもつ大きな利点は、彼らが諸案件を討議できることで
  ある。人民はそれに全く適しない。これは民主政の重大な不都合の
  1つをなしている。』
と書いとります。

さらにモンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P296-P297)で
 『人民はその代表者たちを選ぶためにのみ統治に参加すべきである。
  これは人民の力のよく及ぶところである。なぜなら、人間の能力の
  正確な程度を知る人は少ないにしても、一般に各人は、自分の選ぶ
  者が他の大多数の者より識見があるかどうかを知ることはできるか
  らである。』
と書いとります。

しかし、今は隣の人も良く知らないからねえ。
良く知らないって言うか、見たこともない?
posted by 浅谷龍彦 at 02:05| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

三権分立?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P291-P292)で
 『同一の人間あるいは同一の役職者団体において立法権力と執行権力
  とが結合されるとき、自由は全く存在しない。なぜなら、同一の君
  主または同一の元老院が暴君的な法律を作り、暴君的にそれを執行
  する恐れがありうるからである。
  裁判権力が立法権力や執行権力と分離されていなければ、自由はや
  はり存在しない。もしこの権力が立法権力と結合されれば、公民の
  生命と自由に関する権力は恣意的となろう。
  なぜなら、裁判役が立法者となるからである。もしこの権力が執行
  権力と結合されれば、裁判役は圧制者の力をもちうるであろう。
  もしも同一の人間、または、貴族もしくは人民の有力者の同一の団
  体が、これら三つの権力、すなわち、法律を作る権力、公的な決定
  を執行する権力、犯罪や個人間の紛争を裁判する権力を行使するな
  らば、すべては失われるであろう。』
と書いとります。

欲張るなっちゅうことやね?
posted by 浅谷龍彦 at 01:49| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月01日

三権?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P291)で
 『各国家には三種の権力、つまり、立法権力、万民法に属する事項の
  執行権力および公民法に属する事項の執行権力がある。
  第一の権力によって、君公または役人は一時的もしくは永続的に法
  律を定め、また、すでに作られている法律を修正もしくは廃止する。
  第二の権力によって、彼は講和または戦争をし、外交使節を派遣ま
  たは接受し、安全を確立し、侵略を予防する。第三の権力によって、
  彼は犯罪を罰し、あるいは、諸個人間の紛争を裁く。この最後の権
  力と呼び、他の執行権力を単に国家の執行権力と呼ぶであろう。』
と書いとります。

まあ、これは知ってるわね。
posted by 浅谷龍彦 at 03:29| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月28日

制限政体?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P289)で
 『民主政や貴族政がその本性によって自由な国家であるのではない。
  政治的自由は制限政体にのみ見出される。しかし、それは制限政体
  の国々に常に存在するわけではなく、そこで権力が濫用されないと
  きにのみ存在する。しかし、およそ権力を有する人間がそれを濫用
  しがちなことは万代不易の経験である。彼は制限に出会うまで進む。
  信じられないことだが、徳でさえ制限を必要とするのである。
  権力を濫用しえないようにするためには、事物の配置によって、権
  力が権力を抑止するようにしなければならない。誰も法律が義務づ
  けていないことをするように強制されず、また、法律が許している
  ことをしないように強制されないような国制が存在しうるのである。』
と書いとります。

ただ民主的であるだけじゃ足りないってことやね。
「徳」を含めたあらゆる「良心」もほどほどにっちゅうこっちゃね。

またプル−ドンは『連合の原理』の第6章(P364)で
 『権威と自由という二つの原理が歴史の中で、論理的な、年代順の、
  連続した形で現れることに気づかれる。権威は、家族のように、始
  祖である父のように、最初のものに見える。権威が先にある。これ
  は確認である。理屈っぽい自由はあとから訪れる。これは批判であ
  り、抗議であり、限定である。』
と書いとります。

制限と限定!
posted by 浅谷龍彦 at 22:07| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月25日

民衆の望むこと?

プル−ドンは『連合の原理』の第5章(P357)で
 『民衆は下層にあり窮地にあるという事実によって、常に自由と進歩
  の勢力を形成する。労働はその本性上共和的である。その反対であ
  るとすれば矛盾するであろう。しかしその無知とその本能の原始性、
  その要求の激しさ、その欲望の短気さのために、民衆は権威の簡略
  な形態に心が傾きがちである。民衆が求めているもの、それは法的
  な保証では決してない。民衆はそれについていかなる思想も持って
  いないし、その能力も抱いていない。それは機構の組合せでも力の
  均衡でもない、民衆はそれらを自分たちのために必要としない。民
  衆が求めているのは、その言葉が信頼でき、その意向が知れわたり、
  彼らの利益のために献身してくれる首領なのである。この首領に対
  して、民衆は無制限の権威を、抵抗しえない力を与える。民衆は彼
  が彼らにとって有益であると判断したものを正義のように見、彼が
  民衆の一員なので形式上の手続きを無視し、いかなる場合も権力の
  受託者たちに対して課する条件を設けない。疑いやすく中傷しやす
  い、しかし整然とした討議のできない民衆は、結局人間の意志をし
  か信じないし、人間にしか期待をかけない。民衆は自分たちの被造
  物、人の子しか信用しない。民衆は彼らを救いうる唯一のものであ
  る諸原理に少しも期待をかけないし、彼らは思想についての宗教を
  持たないのである。』
と書いとります。

つまり民衆は英雄を求めてるってことかな?
posted by 浅谷龍彦 at 17:39| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

人が望むことと政治的自由?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P288-P289)で
 『民主政の国々においては、確かに人民が望むことを行っているよう
  にみえる。しかし、政治的自由とは人が望むことを行うことではな
  い。国家、すなわち、法律が存在する社会においては、自由とは人
  が望むべきことをなしうること、そして、望むべきでないことをな
  すべく強制されないことにのみ存しうる。
  独立とはなんであるか、そして、自由とはなんであるかを心にとめ
  ておかねばならない。自由とは法律の許すすべてをなしうる権利で
  ある。そして、ある公民が法律の禁ずることをなしうるとすれば、
  他の公民も同じようにこの権能をもつであろうから、彼にはもはや
  自由はないであろう。』
と書いとります。

つまり自然状態に戻るってことやね。
posted by 浅谷龍彦 at 03:16| 千葉 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

自由の中身(その2)?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P287-P288)で
 『自由という言葉ほど異なった意義を与えられ、これほど多くの仕方で
  人の心を動かしてきたものはない。それを目にして、ある人々は自分
  たちが暴君的権力を与えてきた者を廃する能力とし、他の人々は自分
  たちが服従すべき者を選ぶ権能とした。それは武装して暴力を行使し
  うる権利だと考える者があるかと思えば、自国民のうち一人によって
  のみ、または自分たち自身の法律によってのみ統治される特権だと考
  える者もある。ある人民は、長い髯をはやす慣行を自由と考え続けて
  きた。この名称をある形式の政体に結びつけ、他の政体を排除した者
  もある。共和政体を享楽した人々は自由を共和政体の中におき、君主
  政体を享受した人々は自由を君主政体の中に位置づけた。要するに、
  各人は自分の慣習あるいは自分の性向に適した政体を自由と呼んだの
  である。共和政においては、人が嘆く害悪の手段が必ずしも眼前にあ
  りありと存在しないので、また、法律がより多く語り、法律の執行者
  がより少なく語るようにみえるので、人は概して自由を共和政の国々
  に認め、君主政の国々から除外した。最後に、民主政の国々では、人
  民はほとんどその望むことを行なっているようにみえるので、人は自
  由をこの種の政体の中におき、人民の権力と人民の自由とを混同した
  のである。』
と書いとります。

人民の権力? 人民の自由? その混同?
posted by 浅谷龍彦 at 02:08| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月05日

平等と対等?

平等はよく「法の前の平等」とか「神の前の平等」などといわれる。
それは平等という概念に「法」や「神」といった当事者の利害とは無縁と想
定される第三者の存在が含まれているからである。
対等という概念には第一者と第二者しかいない。
そこには当事者同士が互いの力の差を利用しないという自己抑制とその合意
が含まれている。

スポーツに例えると、二人のプレーヤーを平等に扱いゲームを支配するのが
審判で、二人のプレーヤーは互いに各自が持つ力を使って、審判に圧力を掛
ずに、プレー内容だけで対等に戦うということになるだろうか。
まあフェアプレーっちゅうことやね。

ちなみにフットボールがHome&Awayで試合をするのは、審判に圧力が掛か
ることを前提にしてるからやね。
イタリアのようにね。イタリアだけじゃないか?
posted by 浅谷龍彦 at 00:30| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月03日

打撲傷と擦過傷?

自由-不均衡-個性-疎遠-打撲傷-倫理
平等-均衡-同質性-至近-擦過傷-道徳
posted by 浅谷龍彦 at 17:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

私有と国有?

スピノザは『国家論』の第6章(P70)で
 『田畑ならびにすべての土地、そしてもしできれば住宅も公共の所有
  としなければならない。すなわち国家の権利を握る者に属させなけ
  ればならない。そしてこれらの土地は毎年税金を払って彼から国民
  ー都市民ならびに農民ーに賃貸される。』
と書いとります。

柄谷行人は『トランスクリティーク』(P242)で
 『近代的な私有権は、それに対して租税を払うということを代償に、
  絶対主義的国家によって与えられたものだ。私有はむしろ国有なの
  であり、逆に国有こそ私有財産制なのである。』
と書いとります。

ちなみに国有=共産主義ってイメージがすぐ浮かぶけど、実は日本も
昔々「国有化」してたらしい。「公地公民」ってやつがそれだけどど
こまで実施されたかは疑われている模様。

ウィキペディア参照↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%9C%B0%E5%85%AC%E6%B0%91%E5%88%B6
posted by 浅谷龍彦 at 23:11| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

所有権の種類?

ホッブスは『哲学者と法学徒との対話』の第10章(P231-P232)で
 『家族の主権的支配者[家長]が、先に述べたような経緯で獲得した土地
  はすべて、かれの所有地になるといたしますと、臣下が、どれほど主権
  者[国王あるいは領主]の勝利に貢献しても、臣下には、所有地はまっ
  たくない(中略)なぜなら、臣下たちは、[主権者の]家族であろうが
  なかろうが、一片の土地をも要求する権利はないのであって、もし要求
  できるものありとすれば、安全の保障を要求する権利だけなのさ。』
と書いとります。

またホッブスは『哲学者と法学徒との対話』の第10章(P239)で
 『所有権には二種類の形態がある。一つは、ある人が、神からのみ賦与
  された土地を保有するばあいで、そのような土地を、ローマ法学者は、
  アロディアイルすなわち完全私有地[自由所有地]と呼び、王国内に
  おいて、それを保有するのは国王ただ一人である。もう一つは、ある
  人が、他の人間への奉仕と服従にかんして封として土地保有を許され
  るばあいだ。第一の種類の専有[用]権は絶対的なものであるが、第
  二の種類の専有[用]権は、授与した者にたいしてなんらかの奉仕を
  することによって与えられたものである。第一の種類の専有[用]権
  は、すべての他の者の権利を排除するが、第二の種類のものは、その
  土地にたいするすべての他の臣下の権利は排除するが、主権の権利は
  排除しない。そのばあいには、国民の共通善がその土地の使用を要求
  するものとされるだけだ。』
と書いとります。

う〜ん、封建制?絶対主義?今も同じ?
posted by 浅谷龍彦 at 10:42| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月17日

所有権の始まり?

ホッブスは『リヴァイアサン』の第15章(P236-P237)で
 『《正義と所有権は、コモンーウェルスの設立とともはじまる》
  しかし、相互信頼による信約は、いずれかの側に不履行についての
  おそれがあれば無効であるから、正義の起源は信約の成立ではあっ
  ても、そういうおそれの原因が除去されるまでは、そこには、じっ
  さいには、なにも不正義はありえない。その除去は、人びとが戦争
  という自然状態にあるあいだは、おこなわれえないのである。した
  がって、正と不正という名辞が場所をもつためには、そのまえに、
  ある強制権力が存在して、人びとがかれらの信約の破棄によって期
  待するよりもおおきな、なんらかの処罰の恐怖によって、かれらが
  自分たちの信約を履行するように、平等に強制しなければならず、
  かれらが放棄する普遍的権利のつぐないとして、人びとが相互契約
  によって獲得する所有権 Propriety を確保しなければならないの
  であり、そしてそういう権力は、コモンーウェルスの設立のまえに
  は、なにもないのである。そしてこのことは、スコラ学派における
  正義についての定義からも、推測される。すなわち、かれらは「正
  義とは各人に各人のものを与えようとする不断の意志である」とい
  う。(中略)正義の本性は、有効な信約をまもることにあるが、し
  かし信約の有効性は、人びとにそれをまもることを強制するのに十
  分な、政治権力の設立とともにのみ、はじまるのであって、しかも
  そのときにまた、所有権もはじまるのである。』
と書いとります。

するってえと殺人とは、他人が所有してる命を奪うこと?
posted by 浅谷龍彦 at 01:05| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月10日

所有の起源?

ホッブスは『哲学者と法学徒との対話』の第10章(P229)で
 『所有の起源は、すべて家族から発したものである。このなかで第一には、
  家族においては、家父長が、自然の法により、妻や子供たちを統治する
  主[家長]であったことが明白であること。(中略)第五に、土地には
  すべて、主[家長]が定住するが、そのさい、自分および家族の利益の
  ために使用する土地はすべて、そこに先住する人がいなかったときには、
  最初の占有の法にもとづいてその主の所有地となったということ。また、
  たとえ先住者がいたとしても、もしもその土地を征服したばあいには、
  戦争の法にもとづいて支配者のものになったということ。』
と書いとります。

まあ、だいたいそうだったでしょうねえ。きっと。たぶん。
これも自然状態のお話かな?
posted by 浅谷龍彦 at 23:28| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月30日

世界共和国=地球連邦?

人は生まれてしばらくの間は、自分と外界(世界)の区別がないようです。
(覚えてませんが)
主客未分の状態で自己も世界もない。そのうちだんだんと世界と自分が切
り離されていることが感覚でわかってくるようです。(記憶にないですが)
そうして自分と世界が1つではないと自覚した時、自己ができると同時に
世界ができるらしい。つまり自己と世界はセットであり、自己が崩壊すれ
ばその人にとって世界も崩壊してしまう。細かくいうと自己とは自己と世
界の境界線のことらしい。

ところで2人の人がいた場合、ヘーゲルによると「欲望とは他者の欲望」
ですから、互いに相手の欲望が自分の欲望になります。上手く分け合える
場合はいいですが、そうでない場合には対立する。これがホッブスのいう
自然状態?2人による2人への闘争?

これは3人になっても基本的には変わりませんが、3人のうち2人の利害
が一致し1人が敵対する状況がうまれると、2人が結合してコモンーウェ
ルスを形成する。2人内部での利害の対立が他の1人との対立よりも小さ
い間、このコモンーウェルスは維持されます。よくいわれるように3人集
まると派閥ができるわけです。

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posted by 浅谷龍彦 at 01:04| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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