2007年05月08日

迷信嫌い?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P156-P157)で
 『(予定説という)この悲愴な非人間性をおびる教説が、その壮大な
  帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何
  よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。宗
  教改革時代の人々にとっては人生の決定的なことがらだった永遠の
  至福という問題について、人間は永遠の昔から定められている運命
  に向かって孤独の道を辿らねばならなくなったのだ。(中略)
  このこと、すなわち教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したとい
  うことこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な
  点だ。世界を呪術から解放するという宗教史上のあの偉大な過程、
  すなわち、古代ユダヤの予言者とともにはじまり、ギリシャの科学
  的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし
  邪悪として排斥したあの呪術から解放の過程は、ここに完結をみた
  のだった。真のピューリタンは埋葬にさいしても一切の宗教的儀式
  を排し、歌も音楽もなしに近親者を葬ったが、これは心にいかなる
  》superstition《「迷信」をも、つまり呪術的聖礼典的なものが何
  らか救いをもたらしうるというような信頼の心を、生ぜしめないた
  めだった。』
と書いとります。

困った時の神頼み。禁止っちゅうことやね。
ラベル:FREEDOM 自由
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2007年05月02日

予定説?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P152-P154)で
 『カルバンにおいては、この》decretum horribile《「恐るべき[神
  の]決断」の教理はルターのように体験によってあたえられたので
  はなく、思索によってあたえられたのであり、したがって神のみを
  思い人間を思わない彼の宗教的関心が思想的に徹底されていくたび
  に、その重要性もますます大きいものとなっていった。人間のため
  に神があるのではなく、神のために人間が存在するのであって、あ
  らゆる出来事は−したがって、人々のうちの小部分だけが救いの至
  福召されている、というカルバンにとって疑問の余地のない事実も
  また−ひたすらいと高き神の自己栄化の手段として意味をもつにす
  ぎない。地上の「正義」という尺度をもって神の至高の導きを推し
  量ろうとすることは無意味であることともに、神の至高性を侵すこ
  とになる。(中略)
  われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠
  に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功績あるいは罪過
  がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まって
  いる神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見な
  すことで、あり得べからざる思想なのだ。新約聖書では、一枚の銀
  貨を見つけた女のように罪人の帰還をよろこび給う、人間的に理解
  しやすい「天の父」である神が、ここでは、永遠の昔から究めがた
  い決断によって各人の運命を決定し、宇宙のもっとも微細なものに
  いたるまですでにその処理を終え給うた、人間の理解を絶する超越
  的存在となってしまっている。神の決断は絶対不変であるがゆえに、
  その恩恵はこれを神からうけた者には喪失不可能であるとともに、
  これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのだ。』
と書いとります。

なにをしようが結果は同じってことやね。
ラベル:自由 FREEDOM
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2007年04月26日

レクの時間?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P329)で
 『王制的・封建的社会は、台頭してくる市民道徳と反権威的・禁欲的な
  私的集会に対抗して、「享楽意欲のある者」を保護したのだが、それ
  は今日、資本主義社会が労働者の階級道徳と反権威的労働組合に対抗
  して「労働意欲のある者」を保護するのに似ている。それに対抗して、
  ピューリタンは自分たちの決定的な特性、すなわち禁欲的生活態度の
  原理を擁護したのだった。(中略)遊技はただ合理的な目的、つまり、
  肉体の活動力が必要とする休養に、役立つものでなければならなかっ
  た。(中略)「貴族的な」遊技であれ、庶民が踊りや酒場に行くこと
  であれ、職業労働や信仰を忘れさせるような衝動的な快楽は、ずばり
  合理的禁欲の敵とされたのだった。』
と書いとります。

また第2章(P338)では
 『クエイカー派にとって、(中略)「レクリエーション」としてゆるさ
  れていることは、友人の訪問、歴史書の繙読、数学および物理学の実
  験、園芸、経済関係その他の世俗事に関する討論、など』
と書いとります。

お固いですねえ。まったく。
なぜイギリス人がガーデニング好きなのか、フランス人がイギリス人につ
いて「人生の楽しみ方を知らない連中」と揶揄するのか、分る気がする。

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ラベル:自由 FREEDOM
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2007年04月10日

ピューリタン?

マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
の中で、プロテスタントの中でも特にイギリスのピューリタンと呼ばれる
人々に注目する。
16世紀前半、ヨーロッパ各国でそれぞれ始まったキリスト教の宗教改革、
ドイツのルター、スイスのカルバンなどが有名だが、イギリスでもローマ・
カトリック修道院の多数廃止が国王によって行なわれ、イギリス国教会が
できる。ただイギリス国教会は政治的にカトリックと分離しただけで、教
義はカトリックのままだった。その後国教会の内部でカルバンの影響を受
けたピューリタンが台頭し、対立、やがて国教会から離脱し始め、一部は
アメリカに逃れ、アメリカ独立にも影響を与えることになる。

宗教改革の主旨は大雑把にいって、信仰復興(信仰リバイバル)であり、
信仰からの自由というのとはまったく逆で、もっと厳格に信仰を守ろうと
するものだった。それは聖書を、聖書だけを重要視し、原始キリスト教団
が営んだような、あるいは修道士のような禁欲的な生活を世俗社会で実践
していこうとするもので、これはカルバンの特徴でもあるが、神中心の生
活を求めるものだった。また聖書以外の権威を認めないということは当然、
教会や国王への反権威的な指向も含んでいた。

ピューリタンの禁欲指向は徹底していて演劇や劇場の排斥なども行なった
ため、シェイクスピアはピューリタンを嫌っていたらしい。
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ラベル:自由 FREEDOM
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2007年04月02日

天職?

マックス・ヴェーバーは
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章(P95)で
 『「職業」を意味するドイツ語の「ベルーフ」》Beruf《という語
  のうちに、また同じ意味合いをもつ英語の「コーリング」
  》Calling《という語のうちにも一層明瞭に、ある宗教的な−神
  からあたえられた使命(Aufgabe)という−観念がともにこめられ
  ており、個々の場合にこの語に力点をおけばおくほど、それが顕
  著になってくることは見落としえぬ事実だ。』
と書いとります。
また第1章(P102)では
 『「天職」[神より与えられた召命としての職業]」概念の創造は、
  言葉の上でも聖書の翻訳、しかもプロテスタントのそれから来た
  ものだった。』
さらに第1章(P109-P110)では
 『「天職」という概念の中にはプロテスタントのあらゆる教派の中
  心的教義が表出されているのであって、それはほかならぬ、カト
  リックのようにキリスト教の道徳誡を》praecepta《「命令」と
  》consilia《「勧告」とに分けることを否認し、また、修道士的
  禁欲を世俗内道徳よりも高く考えたりするのではなく、神によろ
  こばれる生活を営むための手段はただ一つ、各人の生活上の地位
  から生じる世俗内義務の遂行であって、これこそが神から与えら
  れた「召命」》Beruf《にほかならぬ、と考えるというものだっ
  た。』
と書いとります。

つまり神への奉仕ってことやね。
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ラベル:自由 FREEDOM
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2007年03月24日

労働の心情と信条?

マックス・ヴェーバーは
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章(P67)で
 『何らかの技能的(熟練)労働だとか、高価な破損しやすい機械の
  取り扱いや、およそ高度に鋭敏な注意力や創意を必要とするよう
  な製品の製造が問題となる場合には、低賃銀はつねに資本主義の
  発展の支柱としてまったく役立たない。こうした場合には、低賃
  銀は利潤をもたらさず、意図したところとは正反対の結果を生む
  ことになる。なぜなら、こうした場合には端的に高度の責任感が
  必要であるばかりか、少なくとも勤務時間の間は、どうすればで
  きるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃銀
  がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、
  あたかも労働が絶対的な自己目的ーBeruf「天職」ーであるかの
  ように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こう
  した心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。
  また、高賃銀や低賃銀という操作で直接作り出すことができるも
  のでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生ま
  れてくるものなのだ。』
と書いとります。

天職!

天職で検索したら”天職占い”なるものを見つけた。↓
http://www1.neweb.ne.jp/wb/yah/tenshoku/tenshoku.htm
--------------------------------------
占い結果
■あなたの天職は『外交官』です。
■生涯の親友は『変質者』です。
■あなたの運命の人は『女王様』です。
--------------------------------------
意味わかんない。(笑)

中国には「天命」という概念があるけど似てるかな?
ウィキペディアによると
「天から人間に与えられた一生をかけて行うべき命令のこと」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD
ラベル:自由 FREEDOM
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2007年03月18日

賃銀率の引き下げ?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章(P65-P66)で
  賃銀率を引き上げて労働者の「営利心」に訴える方法が成功しな
  いならば、その逆の方法、すなわち賃銀率を引き下げて労働者が
  以前と同額の報酬を得るためには前よりもよけいの労働を余儀な
  くされる、という方法が試みられたのは当然だった。(中略)民
  衆は貧しい間だけ、貧しいからこそ労働するのだということは、
  幾世紀を通じて信条となっていたのだ。(中略)
  しかし、一見はなはだ確実に見えるこの方法の効果にも限界があ
  る。たしかに、資本主義が発展しうるためには、労働市場で低廉
  な代価で雇用できる過剰人口の存在が必要だ。けれども、そうし
  た「予備軍」があまり多きにすぎる場合には、資本主義の量的な
  拡大は促進されることがありえようが、その質的な発達、とりわ
  け労働を集約的に利用しつくせるような経営形態への移行はむし
  ろ阻害される。賃銀が低いということと労働が安いということは、
  決して同じでない。』
と書いとります。

つまり賃銀が高くても、その労働者の生産性がそれ以上に高ければ、
利益は出るってことやね。
低賃銀は当面の利益確保にしかならない?
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 00:46| 千葉 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月10日

賃銀率の引き上げ?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第1章(P63-P65)で
 『近代の企業家が「自分の部下の」労働者たちから可能な限り最大
  限度の労働を獲得する、すなわち労働の集約度を高めるために通
  常利用する、技術的方法の一つに出来高賃銀がある。たとえば、
  農業では収穫時が通常、労働の集約度を最大限度に高めることの
  もっとも必要となる場合とされている。(中略)彼らは当然に繰
  り返し、手あたりしだい労働者に対して出来高賃銀の率を高くし
  短期間に得られる報酬を桁はずれに多くすることで、労働の増大
  に関心を持たせようと試みたものだ。しかしその場合、特殊な困
  難が生じた。すなわち、出来高賃銀率を引き上げる結果として期
  待したように一定期間内の労働が増大せず、それどころか、むし
  ろ減少するという場合が目立って多かったのだ。というのは、出
  来高賃銀率の引き上げに対して、労働者たちが一日の仕事を増加
  させずに、むしろ減少させるという反応を示したからだった。
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ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 03:01| 千葉 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月12日

分業と能力差?

アダム・スミスは『国富論』の第1編第2章(P37-P42)で
 『分業は、もともとは、それが生みだす全般的富裕を予見し意図す
  る人間の英知の結果ではない。それは、そのような広範な有用性
  を考慮していない人間本性のある性向、すなわち、ある物を他の
  物と取引し、交換し、交易する性向の、きわめて緩慢で漸次的で
  はあるが、必然的な結果なのである。(中略)
  さまざまな人の生まれつきの才能の違いは、実際には、われわれ
  が意識しているよりもはるかに小さいのであり、成人したときに、
  さまざまな職業の人たちを隔てるようにみえる大きな資質の相違
  も、分業の原因であるよりは、むしろ結果である場合が多い。(中略)

  取引し、交易し、交換するという性向がなかったならば、人はみ
  な自分の必要とするどの生活必需品も便益品も、すべて自分で手
  に入れたに相違ない。万人が同じ任務を遂行しなければならず、
  同じ仕事をし、これだけで大きな才能の相違を生むほどの仕事の
  差というものはありえなかっただろう。(中略)
  人間のあいだでは、もっとも似たところのない資質こそ有用なの
  であって、彼らのそれぞれの才能のさまざまな生産物が、取引し、
  交易し、交換するという一般的性向によって、いわば共同財産に
  なり、そこからだれもが他人の才能の生産物のうち自分の必要と
  するどの部分でも、買うことができるのである。』
と書いとります。

つまりある仕事に特化し、専門化していくことによって各人の能力に
大きな差が生まれ、プロフェッショナルになっていくっちゅうことや
ね。選択と集中ってことかな?
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 04:54| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月21日

国民?

国民とは何か?人は生まれながらにしてどこかの国の国民だろうか?
いや違うようだ。
例えば日本人の両親から日本で生まれた子供が”日本人”なのは間違
いないだろう。しかしその子供がそれだけで”日本国民”とはならない。
近代国家において”国民”になるためには、その国固有の制度に従って
その人間を登録しなければならい。つまり国籍を取らなければならない。
日本の場合、子供が生まれたら出生届を出さなければ、日本人であって
も”日本国民”にはならない。これが国家との契約?
そもそも近代国家以前に”国民”などという概念はなかっただろう。
”国民”とは近代国家が法治的な国民国家として、その対象者を確定す
るために確立されたものなのだから。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 23:27| 千葉 | Comment(5) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月13日

国家機構?

マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の第3章(P145,146)で
 『膨大な官僚・軍事組織をもち、複雑多岐で精巧な国家機構をもった
  この執行権力、50万の軍隊とならぶもう50万の官吏軍、網の目の
  ようにフランス社会の肉体にからみついて、そのすべての毛穴を
  ふさいでいるこの恐ろしい寄生体、それは、絶対君主制の時代に、
  封建制度の衰亡のさいに発生したものであって、この衰亡を速める
  助けをした。(中略)
  しかし、絶対君主制時代、第一革命時代、ナポレオン時代のいずれ
  にあっても、官僚は、ブルジョアジーの階級支配を準備する手段に
  すぎなかった。復古王政時代、ルイ・フィリップ時代、議会制共和
  制の時代のいずれにあっても、官僚は、自分ではどんなに独自の権
  力をめざしてつとめたにせよ、支配階級の道具であった。二代目ボ
  ナパルトのもとで、はじめて国家は完全に自立化したように見える。
  国家機構は、市民社会に対抗して自分の足場をしっかりと固めた』
と書いとります。

つまり今時の支配階級とは公務員?
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 15:22| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月07日

官僚と議会と一般利益?

ヘーゲル(『法権利の哲学』)によると、官僚は不偏不党、公正、穏健
に、国家から委託された公的業務を履行する義務がある。また議会は、
一般利益(公共の利益=国家の利益)を審議、決議するために選出され
るのだから、各自の支持団体が持つ特殊利益よりも一般利益を優先する
ことがその使命となる。
しかし実際は、官僚には官僚の利害(自己保存)があるし、議会は特殊
利益(民間の利害)の代弁者ばかりになりやすい。ヘーゲル(『法権利
の哲学』)は国家に理性を、市民社会に欲望を見るが、逆に国家には国
家の欲望が、市民社会には市民社会の理性があるのではないのだろうか?
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 16:06| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月01日

官僚と議会?

ヘーゲルは『法権利の哲学』の第3章、第301節(P486)で
 『最高府の国家官吏のほうが、国家の諸制度と国家の必要との本性に
  ついてのより透徹したより広範囲な見極めと、おなじくこれら諸業
  務についてのより大きな技量と習慣とを必然的にもっていて、身分
  制議会などなくとも最善をなすことができる』
と書いとります。

また、『法権利の哲学』の第3章、第314-315節(P498)では
 『身分制議会の制度の使命は、国家の重大事がそのものとしてこの議
  会によって最善の審議を受け、決議される、といった点にはない。
  この面に関していうなら、それは単なる補足にすぎない。むしろ議
  会の使命を際だたせている点は、議会が一般的な重要事を共に知り、
  共に審議し、かつ共に決議することによって、形式的自由の契機が
  政府に関与していない市民社会のメンバーに関してもその法権利を
  達成する点にあるのである。それゆえ、一般的な見識という契機は、
  第一に議会での討論が公開されることによって、より広がりを増す。』
と書いとります。

つまり議会は自身で議論を始め決議するのではなく、官僚が作った法案
を公開の審議を通して広く周知し、国家と市民社会を媒介して世論を形
成していくものにすぎないとヘーゲルは見ているようです。
分業により細分化され専門化した官僚(執行権力)の方が優位ってこと
やね。
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 04:32| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月20日

分立と均衡?

分立という考え方は同時に、分立したものの間での均衡という概念を含
んでいる。モンテスキューのいう三権分立は、立法、行政、司法の諸権
力の分立と同時にその権力間での力の均衡、あるいは均衡化を意味する。

立法府である議会は分割された権力の均衡化の一要素であるが、それだ
けでなく、その内部においても常に意見の均衡化が図られる場となる。
多様な利害が対立し意見が分立する議会内において、それぞれの意見が
その真実性を争う競争を行ない、その競争を通じて一つの真理が生成さ
れる。これは経済の競争原理と同じで、意見という商品がその価値を競
い合う場所、それが議会ということになる。またそこで見出される真理
とは、決して不変で絶対的な真理などではなく、絶えず暫進的に修正さ
れ更新され続ける一時的で相対的な真理である。

シュミットによると『議会は、多くの人の間に散在し不平等に分配され
ている理性の断片が集合して、公的支配につく場所』ということになる。

参照:『現代議会主義の精神史的地位』
posted by 浅谷龍彦 at 23:11| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月05日

権力分立と憲法?

シュミットは1789年のフランス革命時の『人および市民の権利宣言』
の第十六条を引用しながら、憲法と権力分立が同一であることを確認
する。つまり憲法はまず第一に権力の制限のためにある。

これはイギリスの歴史を見ても明らかで、憲法のないイギリスでその
代わりなっている一連の法律群の端緒である1225年の『マグナ・カ
ルタ』は、封建諸候や商人、ロンドン市、教会などの特権を国王に認
めさせた特許状であり、国王の権力を制限するものだった。
その後、国王と議会の対立の歴史の中で、1628年に『権利請願』が
なされ、1689年に『権利章典』が制定される。この『権利章典』が
憲法の権利宣言部分の原型となってきている。

『人および市民の権利宣言』
第十六条:権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されていない
     すべての社会は、憲法をもつものでない。

これに対してシュミットは、独裁の定義をこう要約する。
『独裁は民主主義の対立物ではなく、権力分立の本質的な破棄、すな
 わち憲法の止揚、したがって立法と行政の区別の破棄を意味するの
 である。』

参照:『現代議会主義の精神史的地位』
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 21:09| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

意見の公開性?

シュミットは、彼が自由主義の典型と看做すフランスの政治・歴史家
ギゾーの言葉をもとに、議会制の特徴を次の3点とする。

1.権力は、国民と共に真理を追求するために討論することを強制さ
  れること。
2.その討論は公開され、その公開性により国民の監視下に置かれる
  こと。
3.国民が自ら真理を発見し、それを権力に向けて発言する言論/出
  版の自由が確保されていること。

ここには国家機密に関する不信と、権力への警戒心とがある。権力の
恣意的な決定に振り回されるのは常に国民であり、どんな些細な事で
も国民の生活に影響する。そのため権力の意思決定に国民の要求を反
映させ、恣意的な決定を抑制する必要があり、それを代行するのが議
会となる。しかし、たとえ国民の代表といえども、議会が非公開であ
るならば、国民の見えないところで簡単に権力と取り引きしてしまい
かねない。議会の中にいない国民が議会を監視するためには、議会が
公開されていると同時にその様子が出版を通じて国民に伝えられてい
る必要がある。つまり議会と国民は出版に媒介されている。

これも情報公開の一つ?

参照:『現代議会主義の精神史的地位』
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 23:50| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

議会制民主主義の中身?


ナチスの理論家として知られたドイツの法学者、カール・シュミット
は自身を民主主義者と規定し、自由主義を嫌い、彼独自の仕方で議会
制民主主義を分析する。

シュミットによれば、議会制民主主義とは、民主主義と自由主義とが
混ざり合った合成物であり、民主主義を理解するためには、混ざり合っ
た民主主義と自由主義とを相互に区別しなければならない。
個人を出発点として多様な価値観、対立する利害を討議を通して調整
し、契約によって社会の構成を目指すような指向は、自由主義に由来
するものであって、民主主義のものではない。

彼にとって、民主主義とは一つの同質性であり、『あらゆる現実の民
主主義は、平等なものが平等に取扱われるというだけではなく、その
避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取扱われない
ということに立脚している。』という。
異質なものの排除の上に成り立つ同質性は、議論や反論の必要がない
ほどの同一性であり、ルソーのいう一般意志もまた本当はそういう同
質性で、それこそが徹底した民主主義である、としている。
そこではもはや、意見や利害が異なるものなどなく、対立の中からい
くつかの妥協点/共通点を見出して契約を交わし、その履行を互いに
強制する必要などない。

参照:『現代議会主義の精神史的地位』
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 04:44| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月06日

ここまでのまとめ

1.コモンウェルスが成立する以前の自然状態にある個人は自身の思う
  ままに振る舞えるが、それは力(権力、暴力)の行使であり、自由
  とは別腹ではなく別物である。(力と自由を区別)
  この状態では諸個人の力がぶつかりあり「万人の万人に対する闘争」
  が繰り返される。自然状態ではいかなる保証もなく、全てはその力
  が空間的、時間的に及ぶ範囲にのみその権力/権利(自然権)が維
  持される。

2.力の集約とともにコモンウェルスが成立する。
  設立されたコモンウェルスに対して各個人は自然権(力)の譲渡と
  引き換えに安全(生命の維持)の保証を受ける契約関係に入る。
  これは主権者と臣民が互いに侵犯し合わないとする契約である。
  この契約から法が派生し、正義と所有とが確立される。これにより
  コモンウェルス外からの力の行使/権利侵害への防衛体制が確立さ
  れる。

3.しかし権力はその濫用を避けられないため、制限されることが必要
  となる。権力が濫用されればコモンウェルス設立時に契約したはず
  の安全が一方的に破棄される事態を招きかねない。そのため、権力
  を抑制する方策の一つは権力の分割、例えば三権分立は、立法、
  執行、裁判の権力を分立させ、互いに牽制し、バランスを取ること
  で権力の集中を避け、その濫用を抑制しようとするものである。
  また地方に権限を分散する地方分権も中央政府に権力が集中するこ
  とを妨げる効果がある。

結論
力(権力、暴力)の乱立と分散はその応酬を繰り返すのみであり、ある
程度の力(権力、暴力)の集約が必要不可欠である。しかし集約された
力(権力、暴力)は同時に抑制されなければならない。力(権力、暴力)
は外部に対しては一つに結合し、内部では複数に分割されている必要が
ある。

力(権力、暴力)を集約させ、封じ込める。
力(権力、暴力)を確立させ、同時にその行使を禁止する。
どうやって?
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 01:34| 千葉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月27日

公民の政治的自由?

モンテスキューは『法の精神』の第2部、第11編(P291)で
 『公民における政治的自由とは、各人が自己の安全についてもつ確信
  から生ずる精神の静穏である。そして、この自由を得るためには、
  公民が他の公民を恐れることのありえないような政体にしなければ
  ならない。』
また『法の精神』の第2部、第12編(P343)で
 『政治的自由は安全にあり、あるいは、少なくとも自己の安全につい
  てもつ確信にある。この安全を損なうもので、公的または私的な訴
  追以上のものは決してない。したがって、公民の自由は主として刑
  事の法律の良否にかかっている。』
と書いとります。

安全第一!
ってことやね。
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 19:59| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月23日

人民と執行権力?

モンテスキューは『法の精神』の第1部、第2編(P52-P55)で
 『最高権力をもつ人民は、彼がよくなしうることはすべて自分の力で
  なすべきであり、彼がよくなしえないことはそれを彼の職務執行者
  を通じてなすべきである。
  人民の職務執行者は、人民がこれを任命するのでなければ、人民に
  属してはいない。したがって、この政体の基本的確率は、人民がそ
  の執務執行者すなわち役人を任命するということである。(中略)
  大部分の公民が選ぶことに関しては十分な能力をもちながらも、選
  ばれるだけの十分な能力がないのと同じように、人民は他人の事務
  処理についての報告を聞く能力は十分にもっているが、自分の力で
  事務を処理するには適していない。
  事務は進んで行かなかればならないが、それは、遅すぎも早すぎも
  しない一定の動きで進んで行かねばならない。しかるに、人民とい
  うものは、いつでも動きが激しすぎたり鈍すぎたりするものである。
  ときには、人民は十万の腕によってすべてを覆すが、ときには、十
  万の足によっても虫けらほどにしか前進しない。』
と書いとります。

役人=公務員も人民が選べってことやね。全員?
今は執行機関が自分で試験とコネで選んでるんだよね。
試験受かった人全員でワークシェアするってのはなしかな?
くじ引き?
ラベル:自由
posted by 浅谷龍彦 at 00:43| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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