2008年02月24日

信用なんて要らない?

なんで人を信用する必要があるのだろうか?
別に人を信用しないでも生きて行けるのではないだろうか?
だがそうは行かない。(笑)

まず生まれて暫く、赤ちゃんの時には自分で身動きが取れない訳で、母親を信じて
食事や世話をしてもらわなければ生きて行けない。人間はその成長の初期に在って
他者を全面的に信用せざるを得ない状況に置かれてしまうと言えるのではないだろ
うか?

人が人を信用するのは決して人を信じたいからではないだろうと思う。そうではな
く、信用するしかない状況に置かれてしまっているから、仕方なくそうするのだと
思う。もし本当に人を信じないと言う事ならば、全部自分一人だけで何でもやる事
になる。人を信用しないのだから、何か生活に必要な物も全て自分で調達し用意し
て暮らして行く事になる。それは完全自給自足の自己完結した自己責任の世界だ。
だが多くの人が同じ場所に暮らす社会ではこんな生活は無理だろう。無人島みたい
に社会から隔絶された状況にならない限り。

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posted by 浅谷龍彦 at 23:58| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月10日

信用?

人を信用すると言う事はどう言う事なのだろうか?
人を信用するとはその人の言動を信じる事だろうか?
その人の言動を信じると言う事は、その言動を認めると言う事だろうか?
その人の言動を認めると言う事は、その言動を許すと言う事だろうか?
その言動を許すと言う事は、その言動を受け入れると言う事だろうか?
その言動を受け入れると言う事は、その人の存在を受け入れると言う事だろうか?
posted by 浅谷龍彦 at 20:33| 千葉 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月20日

略奪と贈与?

略奪者が仲間を作り始めると、それは拡大の一途を辿る。
集団を維持する為には分配し続けなければならず、その為には新たな略奪
物が必要になる。こうして集団の膨張が始まり、対抗する別の集団に出会
うまで拡大し続ける。そうして何時しか複数の集団が隣接し、地上は人の
支配する土地、国家に覆われて行く事になる。

だがそれでも、人が住んだり、管理、支配するのに難しい場所は残され、
そこでは権力の強制力が弱かったり、及ばなかったりする。
例えば砂漠だったり海がそう言う場所であり、もしそういう所を支配しよ
うとすれば、多くの人員、物資、つまりコストが掛かり、とてもその支配
を維持する事が不可能である。
このような場所は権力の外にある世界であり、権力から逃れた者を含むあ
らゆる者が行き来する事が可能な場所になる。もちろんそれは危険を伴う
が、同時にその危険が権力からの安全を保証してくれるものともなる。
つまり自然の危険が人の危険を遠ざけてくれる。
(盗賊、海賊がいたりするけど)
こうした場所を利用して、多くの人々が交流し、交易する。
ここでもまた略奪(支配)への諦め(限界)が交換の空間を準備すると言
えると思う。また略奪(支配)の諦めと言う点では、遠い地域には侵略せ
ずに交易するという場合もある。隣接する地域なら侵略後の支配も本国の
延長で可能であろうが、更にその先の地域となると継続して支配するには
反乱が起こり易く、やはりコストが掛かって割りに合わないからである。
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ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 00:49| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月23日

略奪?

もの凄い強い人がいて、略奪の限りを尽くして色々な物を手に入れていた
としよう。では彼は死ぬまで年中無休で24時間戦い続けられるだろうか?
若いうち、体力のあるうちはいいが年老いてもなお戦い、生き残れるか?
彼は他人から物を奪い続けられるだろうか?

もし彼が人間であるのならそれは無理だろう。まず人間なら寝ないといけ
ない。だが略奪を繰り返していれば当然略奪の被害にあった人達も多いは
ずで、その多くは彼を恨む敵となっていることだろう。細心の注意を払っ
て寝ないと、寝首を掻かれる恐れが出て来る。

敵が増えてくれば当然自分一人では自分を守りきれなくなって来て、仲間
を作る必要が出て来る。しかし仲間を作るという事は、仲間になる奴から
は何も奪わない、奪えないと言う事になる。じゃなくちゃ誰も仲間になっ
てくれはしない。(笑)
なので、仲間を作る必要が出て来た段階で、誰からでも奪い続けると言う
事は出来なくなる。更に仲間を作ったら、それ以降略奪物を分け与えなけ
ればならなくなる。それも仲間が納得するだけの物を上げないと、今度は
裏切られて仲間に寝首を掻かれかねない事になる訳で、増々自分の取り分
を削らなくてはならない状況に追い込まれて行く。

と言う事で、一人の人間が他の全ての人から物を奪い続けると言うのは、
無理だと判断できるだろう。略奪の後には必ず分配と言うまた別のコミュ
ニケイションの形態が現れる事になると言えると思う。いや正確には、略
奪には常に潜在的に分配が含まれていると言う事になるだろう。
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2007年10月15日

交換?

人類の初め。
二人の人間が、それぞれ違う食べ物を持って出会ったとする。
この二人はどうするだろうか?
1.互いに干渉せず別れ、それぞれの食べ物をそれぞれ食べる。(自給型)
2.互いに互いの食べ物を全部手に入れようとして戦う。(略奪型)
3.互いの食べ物の一部を交換して相手の食べ物を手に入れる。(交換型)

まあ、どの行動も有り得るだろう。
しかし結果的にどの行動をとるにしても、この二人の頭の中には次にどう
すか、この3つの行動を含むあらゆる行動が浮かび、そのどれを選択する
か瞬時に判断が行なわれる事になるはずだ。

まず二人が互いの持つ食べ物を見た瞬間、相手が持つ食べ物を”欲しい”
と感じるのが自然ではないだろうか。それでその次には、どうやって手に
入れるかを考えるだろう。で、どうやって?もちろん力尽くで。(笑)
しかし実力行使というのは実際、労力つまり体力を使うコストの掛かる手
段で、使わなくて済めば使わないに越した事はない。なので大抵最初は威
嚇し、脅す。脅して相手が諦めてくれれば、無駄な労力を使わず楽に食べ
物を増やせて理想的な結果が得られるからだ。だが相手が脅しに屈してく
れなければコストを掛けて、体力を使って奪う事になる。

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posted by 浅谷龍彦 at 23:17| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月30日

専制を和らげるもの?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第5章(P153-P155)で
 『地方自治の制度はあらゆる国民の役に立つと思う。だが、社会状態が
  民主的な国民ほど、この制度を本当に必要としている者はないように
  見える。
  貴族制にあっては、自由の中にもある種の秩序を保つことがいつでも
  期待できる。支配層にとって失うものが多いので、秩序は彼らにとっ
  て重大な関心の対象である。同様に、貴族制の中で人民はゆきすぎた
  専制から守られているといえる。というのも、専制君主に抵抗する備
  えのある組織された諸力がそこにはいつもあるからである。地方自治
  の制度を欠く民主制はこのような弊害に対していかなる防壁ももたな
  い。小事において自由を用いる術を学んだことのない群衆に、どうし
  て大事における自由を支えることができよう。一人一人が弱体で、し
  かもいかなる共通の利害による個人の結合もない国で、どうして暴政
  に抵抗できよう。放縦を嫌い、絶対権力を恐れる者は、地方の自由の
  着実な発展を同時に望むべきである。さらにまた、私の確信するとこ
  ろでは、社会状態が、民主的な国民以上に、行政の集権の軛に囚われ
  やすい国民はない。(中略)
  革命は王政に反対すると同時に地方制度にも反対した。それは先行す
  るものすべて、絶対権力とその苛酷さを和らげうるものとの区別なし
  に憎悪した。革命は共和的であると同時に集権的であった。フランス
  革命のこの二重の性格こそ、絶対権力の友たちが細心の注意を払って
  利用しようとしたものである。』
と書いとります。

専制を和らげるというか、地方の権限が多ければ権力は分散される訳だか
ら、中央政府に集中しずらくなるわね。また権力に抵抗する「共通の利害
による個人の結合」という意味では労働組合にもそういう機能があったの
かもしれないね。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 17:04| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月24日

行政の集権と生産性?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第5章(P144-P145)で
 『中央権力というものは、どんなに開明的で賢明におもわれようとも、
  それだけで大きな国の人民の生活をあらゆる細部まで配慮しうるもの
  ではない。(中略)
  たしかに、集権制は人間の外的行為をたやすくある特定の画一的形式
  に従わせることができ、人はやがてそれによって処理される個々の事
  柄とは別に、画一性それ自体を愛するようになる。(中略)集権制は
  日常の事務に規則的な足取りを与え、社会秩序の細部を巧みに管理し、
  軽い混乱を鎮め、小さな犯罪を罰することには容易に成功する。それ
  自体では頽廃でも繁栄でもない現状のままに社会を保持すること、行
  政官がよき秩序とか公共の静謐と呼び慣わしている一種の行政の半睡
  状態を社会全体の中で保つこと、このようなことに集権制は成功する。
  一言でいえば、それが長じているのは何かを妨げることであって、何
  かをなすことではない。社会を深部から揺るがし、急激な動きをこれ
  に与えなければならぬときには、集権制はなんの力にもならない。少
  しでも個人の協力を仰ぐ必要のある措置をとる場合には、集権制の巨
  大組織は驚くほど無力である。突如としてそれは無能をさらけだす。
  そこで時として、集権制の側が窮余の一策として、市民の協賛を得よ
  うとすることがある。だがその際、権力は次のように語る。諸君は私
  の望むとおりに、私の欲する限りにおいて、またまさしく私の欲する
  方向に動いてほしい。諸君は全体を導こうなどと思わず、細部を担当
  してほしい。闇の中で作業し、私の仕事は後で結果によって判断して
  ほしい、とこう言うのである。このような条件の下では、人間の意志
  に基づく協力は決して得られない。そのためには自由に動き、行為に
  責任をとることが必要である。人間は独立性を失って、自分の知らぬ
  目的地に向かって歩くくらいなら、じっとうごかないでいる方を選ぶ
  ようにできている。』
と書いとります。

集権制には人民を奴隷に近付けて行くような方向性、指向性があるってこ
とやね。つまり人民を非生産的にしていく。それに対して分権制あるいは
自治制は、人民を、利益を追求する労働者のように積極的にさせ、自分の
利益のように地域の利益を考える志向を促すってことかな?
それにこれは国家の権力構成の話だけど、企業にも当て嵌まる話でしょ。
多くの人には国家の話としてよりも企業内のこととしての方がピンと来る
んじゃないのかな?
バンドを含めたあらゆる組織体にもね。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 20:27| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月16日

政治の集権と行政の集権?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第5章(P137-P139)で
 『集権制は今日、人が繰り返し口にする言葉だが、一般に誰もその意味
  を厳密に定義しようとはしない。ところが、集権制には二種類あって、
  両者が大いに異なることを知るのは重要である。
  全国法の制定や自国民と外国人との関係のように、ある種の利害は国
  のあらゆる部分に共通に関わる。たとえば自治体の事業のように、国
  のある一部にだけ特に関わる別の利害もある。第一の種類の問題を処
  理する権限を同じ場所、同じ人の手に集中すること、これば政治の集
  権と私が呼ぶものをうちたてることである。同様にして第二の種類の
  問題を処理する権限を集中するのは、私が行政の集権と名づけるもの
  をうちたてることである。二つの集権が交わる点もある。だが、それ
  ぞれの分野にだけ属する事象を全体として見れば、両者は容易に区別
  される。(中略)
  現代において、われわれは政治の集権が極度に進んだ強国として、イ
  ギリスを知っている。この国では国家はあたかも単一の人間のように
  振舞い、膨大な大衆を思うままに動員し、国家の実力を結集してどん
  なところでも望みのままに力を及ぼす。この五〇年の間にこれほど偉
  大な事業をなしたイギリスに、行政の集権は存在しない。私としては、
  強力な政治の集権なくして国家が生存しうるとは思えないし、まして
  繁栄できるとは考えられない。
  だが、行政の集権は、これに服する国民を無気力にするだけだと思う。
  なぜなら、行政の集権には国民の公共精神を絶えず減退させる傾向が
  あると考えるからである。たしかに、行政の集権はあるとき、ある特
  定の場所に、国の活用しうる全力を結集することには成功する。だが
  この力を再生産するには有害である。行政の集権は戦いの日には国を
  勝利に導くが、長い間には国力を弱める。一人の人間の一時的栄光に
  大いに与ることはあっても、一国の人民の持続的繁栄には貢献しえな
  い。注意しなければならないのは、集権制なしに国家は行動しえない
  と言うとき、意識せずとも、それはほとんどつねに政治の集権につい
  て言っているのだということである。』
と書いとります。

政治の集権と行政の集権という話は興味深い。が、ちとわかりずらい。
確かにアメリカは、イギリスの植民地である13の州が独立してできた国で、
先に州があり、その13州が連合したのが合衆国。国が後。
イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルラン
ドの非独立国や地域の連合国。
両国とも州や地域の自治性が高いのは間違いないだろうが。。。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 21:05| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月09日

遺産分割と労働者?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第2部第10章(P312-P313)で
 『財産の不平等な分割が南部に支配的だったころ、家々は労働を好まぬ
  という以上にその必要を感じない一人の裕福な男にそれぞれ代表され
  ていた。彼の周囲には、法律によって共通の遺産から予め排除されて
  いる家族成員が、ちょうど寄生植物のように、同じような生活を送っ
  ていた。(中略)合衆国の南部では白人人種全体が貴族団体を構成し、
  その先頭には恒久的な富と先祖伝来の暇に恵まれた一定数の特権的個
  人が存在した。アメリカのこの貴族のこの長たちは、彼らが代表する
  団体の中で白人人種の伝統的偏見を永続させ、無為の生活の栄光を守っ
  た。この貴族集団の中部にも貧乏人は見つけられたが、労働者は見つ
  けられず、貧困の方が仕事に就くよりましとみなされた。黒人の奴隷
  労働者は、だから競争相手をもたず、その仕事の効率をどう考えるに
  せよ、彼らしかいなかったのだから、これを雇うほかはなかった。
  長子相続法が廃された瞬間から、あらゆる財産は一斉に縮小し始め、
  すべての家族が同じ動きに巻き込まれ、生きるためには働かねばなら
  ぬ状態に近づいた。(中略)そこで人は、かつて労働を蔑視していた
  偏見を一致して捨て始めた。以前より貧乏人は多くなり、貧乏人は恥
  じることなく生活手段の追求に打ち込めた。かくして平等な遺産分割
  のもっとも手近かな帰結の一つは、自由労働者の階級をつくり出した
  ことであった。自由な労働者が奴隷と競争を始めたその瞬間から、後
  者の不利が意識され、奴隷制はその原理において、つまり主人の利益
  の観点から攻撃を受けた。』
と書いとります。

「働くのは当たり前」という思想は当たり前ではないってことやね。
ヴェーバーが、プロテスタントとカトリックの間に見た労働観の違いにも
対応するお話かな。
またアメリカの奴隷制が、道義的な理由だけで廃止されえた訳ではないっ
てことやね。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 01:13| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月02日

労働者と奴隷?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第2部第10章(P306-P310)で
 『インディアンがいみじくもオハイオ、すなわち美しい川と呼んだその
  川は、かつて人が住まいとした中でももっとも壮大な河谷をその水で
  潤している。(中略)オハイオ川の流れが刻む限りない蛇行に沿って
  左岸の州はケンタッキーと呼ばれる。もう一つの州はその川自体から
  その名をとった。二つの州の相違はただ一点にのみある。ケンタッキー
  は奴隷を許容し、オハイオ州はこれをすべて拒否したという点である。
  (中略)
  オハイオ川の左岸では、労働は奴隷制の観念と混同されている。右岸
  では安楽と進歩の観念と一体である。かしこではそれは不名誉だが、
  こなたでは称賛の的である。その川の左岸では白人人種に属する労働
  者は見つからない。いたとしても、彼らは働いて奴隷に見られるのを
  恐れるであろう。黒人の労働に頼るほかはない。右岸では閑人を探そ
  うとしても無駄である。白人は活力と知力を傾けてあらゆる仕事に手
  をのばす。(中略)

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ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 02:18| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月26日

均分相続法?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第3章(P78-P81)で
 『相続法が父親の財産を子供全部で均等に分けることを許す場合、さら
  により強くこれを命じる場合、その帰結は二様である。二つの帰結は
  どちらも同じ目標に向かうとはいえ、両者を注意深く区別することが
  重要である。相続法の効力ために、所有者の死はその財産に一種の革
  命をもたらす。財産の持ち主が変わるだけでなく、いわば財産の性格
  が変わるのである。それは止むことなく細分される。これは法律の直
  接的効果、いうなればその物質的な帰結である。法が相続分の平等を
  定める国家では、それゆえ、財産、とりわけ土地所有は恒久的な縮小
  傾向を示す。しかしながら法律固有の力だけでは、こうした立法効果
  は長い期間を経ないと現れない。(中略)
  だが、均分相続法は単に財産の状態に影響を及ぼすだけではない。そ
  れは所有者の心そのものに働きかけ、所有者の情念を味方につける。
  この間接的効果が莫大な財産、なかんずく大領地を急激に消滅させる
  のである。(中略)
  相続法が均等分割を定めるときには、それは家の意識と土地の保持と
  の間の密接な関係を断ち切る。土地は家を表すことをやめる。なぜな
  ら、一世代か二世代経てば分割されざるをえないので、土地は絶えず
  小さくなり、ついには消えてしまうことが明らかだからである。大土
  地所有者の息子でも、兄弟の数が少なかったり、幸運に恵まれるなら
  ば、親より貧しくはならないという期待はもてる。だが親と同じ財産
  をもつことは期待できない。どうしてもその富は、親のものとは別の
  要素で構成されざるをえないであろう。(中略)
  そこで、人は家系の永続をもはや求めない。少なくとも土地所有とは
  別の手段でこれを遺そうとする。このように相続法は、家が同一の領
  地をもち続けることを困難にするだけでなく、そうする意志を家から
  奪い、家自身が自らの解体に手を貸すように仕向ける。均分相続法は
  二つの道を通って作用する。それは物に働きかけて人を動かし、人に
  働きかけて物に及ぶ。』
と書いとります。

財産の分割、平準化、均衡化?
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 23:49| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月18日

貴族制?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第2章(P51)で
 『貴族制は土地に寄生するものであり、地所に執着し、地所によって支
  えられる。特権だけで貴族制が確立するわけではなく、出自がこれを
  つくるのでもない。これをつくるのは代々受け継がれる土地所有であ
  る。一国の中に莫大な財産と途方もない貧困が見られることはある。
  しかしその財産が土地に基づくものでない限り、貧乏人と金持ちはい
  ても、そこに本当のところ貴族制は存在しない。』
とし、第1部第2章(P79-P80)で
『相続法が長子相続を基礎にしている国民にあっては、所有地はたいてい
 の場合、何世代にもわたって分割されることなく受け継がれる。その結
 果、家の意識が、いうなれば土地に体現されることとなる。家は土地を
 表し、土地は家を表す。土地は家の名前と起源、その栄光と力と徳を永
 久に留める。それは滅びることのない過去の証人であり、来るべきもの
 のかけがえのない保証である。』
と書いとります。

つまり貴族は一日にして成らずってことかな?
ラベル:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 00:44| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月11日

相続法?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第3章(P77-P78)で
 『政治を論ずる古今の著作家がこれまで、人間社会の動向を左右する要
  因として、相続法にもっと大きな力を認めていないのは私の驚きであ
  る。たしかに、この法律は民事に属する事柄だが、これこそどんな政
  治制度にも先行する位置におかれねばならない。なぜならそれは国民
  の社会状態に計り知れぬ影響を及ぼし、そして政治の諸法は社会状態
  の表現にすぎないからである。しかも相続法は社会に対して確実、一
  定の仕方で作用する。それはいわば生まれる前から各世代をとらえて
  いる。人間は相続法によって、同胞の将来を決定するほとんど神的な
  武器を手にすることとなる。立法者が一度市民の相続関係を規定する
  と、彼は何世紀も安心していられる。作品に動きを与えた後で手を引
  くことができる。仕掛けは自力で動き、予め示された目標に向けてひ
  とりでに進む。ある種の仕組みでは、それによって特定の人間の周囲
  に財産が集まり、やがては権力が集中する。相続の仕組みが貴族制を
  いわば土から湧き出させるのである。別の原理に導かれ、違った方向
  に向けられると、その作用はさらに急激である。富も力も分割、分掌
  され、散り散りになる。』
と書いとります。

相続。これも分配の問題。分配的正義?
骨肉相食む? ボンレスハム? boneless ham? What I have?
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 17:32| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月05日

イギリス的起源とピューリタン的起源?

19世紀前半フランスの政治家トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』
の第1部第2章(P72-P74)で
 『今日のイギリス系アメリカ人を知り、評価しようとするならば、そ
  こで、清教徒的起源とイギリス的起源とを注意深く区別しなければ
  ならない。合衆国ではときに、周囲のすべてと対照をなす法律や慣
  習に出会うことがある。そのような法律はアメリカの立法の支配的
  精神に対立する精神で書かれているように見える。(中略)
  私の考えを理解してもらうために、一つだけ例を引こう。
  アメリカの民・刑事法は監獄と保証金制度という二つの手段しか知
  らない。最初の訴訟行為は被告からの保証金を得ることであり、被
  告がこれを拒否すると、投獄するのである。請求権原の妥当性や量
  刑が議論されるのはその後である。明かにこのような制度は貧乏人
  に対するものであり、金持ちの利益にしかならない。(中略)この
  ような法律ほど貴族的なものがあるだろうか。(中略)
  この現象の説明はイギリスに求めなければならない。先に述べた法
  律はイギリスのものである。アメリカ人は彼らの法制全体、彼らの
  思想の総体に反するにもかかわらず、この法律を変更しなかったの
  である。一国の国民が慣習の次に変えないものは民事法制である。
  (中略)
  アメリカ社会の姿は、そうした表現が可能ならば、一つの民主的な
  層に覆われているが、時としてその下に貴族制の古い色が透けて見
  える。』
と書いとります。

つまり民事が大事ってことやね?
ラベル:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 16:42| 千葉 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月27日

Red Chili Live Vol.1

だいぶ遅くなってしまったが、6/5に東京ドームに見に行った
Red Hot Chili Peppersのライブの感想など書いておこうと思います。
チケットは学生時代の後輩が獲ってくれたもの。深くThanks.

俺がRed Chili(以下レッチリ)をまともに聞いたのはちょうど1年前
バンドのベースがアルバム『Stadium Arcadium』を買って来て
グリーン・デイ(Green Day)の『American Idiot』と一緒に貸して
くれたのがきっかけだった。(グリーン・デイも悪くなかった)

そもそもなんで『Stadium Arcadium』を借りようと思ったのか?
正直それは"Dani California"のPVを見たせいだ。プレスリーからニル
バーナまでいろいろパロってみせたPVが面白かったから。
たぶんそんな奴は俺だけじゃないはずだ!(笑)

もちろんレッチリをぜんぜん知らなかったわけはない。
彼等の代表作『Blood Sugar Sex Magik』発売当時(1991年頃?)、
弟が「他はラップとかで聞けねえけど、1曲だけいい曲があるんだよ。」
って俺に"Under the Bridge"を聞かせたのだが、その時は「まあ悪くは
ねえな。」と答えただけで、特に心にひっかかるものは感じなかった。
その後一応アルバムを流して聞いたが、ラップに偏見があった当時、や
はり受け入れることはできなかった。その後もMTVでPVを見たりしてだ
んだん慣れて、最初の拒否反応はなくなって来ていたが、まさか自分か
ら聞くようになるとは思ってなかった。
ところが借りた『Stadium Arcadium』を聞いてみるとOld Waveでも
聞ける案外普通なロックだったのだ。もう自分のストライクゾーンは決
まってしまっている。あるバンドを好きになるかどうかは、そこに入っ
て来てくれるかくれないか、それ次第。そして案外レッチリがストライ
クゾーンに入って来ていることがわかった。

そこにちょうど来日!(3月→6月にずれたけど)
チケットを余分に獲ってくれた後輩に譲ってもらい、見に行くことにした。
それからライブに行くのに『Blood Sugar Sex Magik』と『Stadium
Arcadium』しか聞いてないんじゃちょっと失礼かとも思い、ライブDVD
『Live at Slane Castle』をレンタルで借りて来て一応目を通しておいた。
(つづく)
posted by 浅谷龍彦 at 23:32| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月10日

アメリカン・ドリーム?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P321)で
 『すべての封建的なものの見方との特徴的な対立は、まさしくこの点
  にある。封建的なものの見方に立つばあいには、子孫の代になって、
  はじめて、(政治的な、あるいは、社会的な)成り上がり者たちの
  成功が血統とともに役立つことになる。(中略)
  今日ではアメリカの「国民性」の急速な変化とヨーロッパ化によっ
  て、ひじょうに影がうすくなっているが、それでも、営業上の成功
  や利得を精神的な達成の印しとして賛美し、単なる(相続)財産に
  はなんらの尊敬も払わぬという、封建的なそれとはまさに対照的な、
  独自な市民風の物の見方が、アメリカではいまでも時おりみられる。』
と書いとります。

つまり成り上がり者に対する社会的な障害が少ない、実力主義、能力主
義的ってことやね。ホリエモンも永ちゃんもWelcome?
ラベル:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 15:16| 千葉 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月03日

富の上での休息?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P292)で
 『富に対する疑念はきわめて真剣である。だが、その倫理上の決定的
  な意味と関連を見抜くためには、もう少し立ち入って調べてみるこ
  とが必要だ。道徳的に真に排斥するべきであるのは、とりわけその
  所有のうえに休息することで、富の享楽によって怠惰や肉の欲、な
  かんずく「聖潔な」生活への努力から離れるような結果がもたらさ
  れることなのだ。財産がいかがわしいものだというのは、それがこ
  うした休息の危険を伴うからにすぎない。というのも、「聖徒の永
  遠の憩い」は来世においてあたえられるもので、地上において人々
  は、自分が恩恵の地位にあることを確かめるために、「彼をつかわ
  されたかたのわざを、昼の間にしなければならない」からなのだ。』
と書いとります。

貯めてもいいけど使っちゃダメ?
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2007年05月28日

時間の浪費?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P293)で
 『明白に啓示された神の意志によれば、神の栄光を増すために役立つ
  のは、怠惰や享楽ではなくて、行為だけだ。したがって時間の浪費
  が、なかでも第一の、原理的にもっとも重い罪となる。人生の時間
  は、自分の召命を「確実にする」ためには、限りなく短くかつ貴重
  だ。時間の損失は、交際や「無益なおしゃべり」や贅沢によるもの
  だけではなく、健康に必要な−六時間かせいぜい八時間以上のー睡
  眠によるものでも、道徳上絶対に排斥しなければならない。(中略)
  時間がかぎりなく貴いというのは、その失われた時間だけ、神の栄
  光のために役立つ労働の機会が奪いとられたことになるからだ。し
  たがって無為の瞑想も、少なくとも天職である職業労働を犠牲にし
  ておこなわれるばあいには無価値であり、ときには端的に排斥すべ
  きものとなる。』
とし、第2章(P298)で
『最初に(といっても中世のことだが)時間を区分して生活した人間が
 修道士だったということ、そして、教会の鐘ははじめ彼らが時間を区
 分するために役立てたのだということを忘れないようにしたいと思う。』
と書いとります。

寝る間も惜しんで働けっちゅうことやね。
"Time is money."はベンジャミン・フランクリンの言葉らしい。。。
今ではアメリカの100ドル札。
ラベル:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 20:08| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月20日

救いの確証手段?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P172)で
 『地上のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、む
  しろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において、
  そうした教説(予定説)を人々はどんなにして堪え忍んでいったの
  だろうか。かならずや信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選
  ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、
  というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関心を背
  後に押しやってしまったにちがいない。』
とし、第2章(P178-P179)で
 『こうした困難に対処するため、さまざまな方法がとられた。(中略)
  その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、
  すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に
  義務づけることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果で
  あり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ。
  このように、己れの召命に「堅く立て」との使徒の勧めが、ここで
  は、日ごとの闘いによって自己の選びと義認の主観的確信を獲得す
  る義務の意味に解されている。(中略)
  いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法
  として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだった。
  つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の
  疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。』
と書いとります。

余計な事考えずに働けっちゅうことやね。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 05:09| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月14日

神の栄光?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P165-P166)で
 『現世にとって定められたことは、神の自己栄化に役立つということ
  −しかもただそれだけ−であり、選ばれたキリスト者が生存してい
  るのは、それぞれの持ち場にあって神の戒めを実行し、それによっ
  て現世において神の栄光を増すためであり−しかも、ただそのため
  だけなのだ。ところで、神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会
  的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の戒めに
  適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うか
  らなのだ。カルバン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、
  ひたすら》in majorem gloriam Dei《「神の栄光を増すため」の
  ものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職
  業労働もまたこのような性格をもつことになる。』
と書いとります。

また第2章(P169)で
 『神は現世の形づくられたもの、だからまた社会的秩序の中において、
  事象的かつ合目的的なものを、必ずみずからの栄化の手段として欲
  したまう。それは被造物自体のためではなしに、被造物界の秩序を
  みずからの意志に従わせんがためだ。そういった思想が、カルバン
  派信徒たちに霊感をあたえた。だから、選びの教説によって解き放
  たれた聖徒たちの行為への起動力は、ひたすら現世の合理化への努
  力となってほとばしり出た。』
と書いとります。

人のための合理主義じゃなくて神のための合理主義?
ラベル:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 20:52| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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