2010年10月24日

必要(3)?

かつて社会主義国では市場経済に代わる計画経済が行われていた。政府が生産や
流通、分配を管理して、計画的で無駄の無い経済を実現する、というものだった。
これに対して市場経済は無政府的で、統制が取れずに暴走するので、恐慌が起き
て混乱するのだとされていた。

計画経済では当然、今あるものを前提に経済活動を計画して行く。もちろんその
中には、新しいものに対する開発計画も含まれているだろうが、市場経済のよう
に誰かの突飛な発明品、新製品がマーケットに出現するような現象が起こる事は
少なくなるだろうという事は容易に想像される。

これに対して、市場経済のその無政府性こそが、新しいものが生まれる場所を余
地を与える。前回まで書いて来たように「必要」は事後的にしかわからない。な
にか新しい「必要」なものが生まれるまでには、無数の不「必要」なものが生み
出され、開発されるという無駄を経なければならない。

だが市場経済においても、この新しい「必要」なものを生み出すための余地、開
発コスト、研究開発費、無政府性(アナーキー)をどれだけ確保できのるか、許
容できのか、という事が常に問題となる。
posted by 浅谷龍彦 at 17:43| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月27日

必要(2)?

当然ながら人は、今あるもので自身の生活様式を形作る。今ありもしないものを
当てにして生活などできはしない。しかし人は、自分に「必要」なものを本当に
知っているだろうか?

自分に何かが足りないかという欠如は分かるだろう。例えば、喉が渇いたとか。
だが喉が渇いたからといって、水ならどんな水でも飲んでいいという訳じゃない。
どこのどんな水を飲めばいいのか、それは既に知っている周りの人が教えてくれ
て初めて分かる。(大概は家族が教えてくれる)
これに対して、何かが足りないという「欠如」。これは自分の脳から信号が来る
ので赤ちゃんでも分かる。赤ちゃんも喉が乾いたら泣いて、なにか喉の乾きを潤
すものを求める。だがその時赤ちゃんは自身の喉の乾きを潤すものを、あれこれ
と指定はしない。

つまり、人は自分になにかが足りていない事については知り得るが、ではその欠
如に対して「必要」なものは何かという事については、誰かに教えられるか、自
身で何度も試してみた後でしか分らない。はじめから分かる訳ではない。
従って、ここでも「必要」は後からやって来るといえる。
人は自身の「必要」を誰か教えられるか、自身で学習した後に知る。

だから、どこかの発明家/開発者が作った発明品/新製品がそのまますぐに人々
に「必要」とされるのは稀である。まず発明品/新製品の効能を宣伝して、人々
に「必要」だとアピールしなければならない。そして使ってもらい、その「必要」
性に気付いてもらわなくてはならない。
人はその発明品/新製品を使うまで、その製品がもたらす効能を自身が「必要」
とする事には気付いていない。人はその製品を使う事を通して自身の「必要」を
発見する。

人はなにか新しいいいものを手にした後で、こう言わないだろうか?
「私が欲しかったのは、これだ!」と。
その時にやっと人は、自身の「必要」を目の当たりにする。
posted by 浅谷龍彦 at 01:21| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月31日

必要(1)?

「必要は発明の母」、英語では"Necessity is the mother of invention."という
格言があるが、これはどこまで本当だろうか?

たとえばSONYのWALKMAN。WALKMANが発売されるまで、一体誰が、移動中
に音楽を聞く「必要」を感じていただろう?
発売当時、俺は小学生で、同級生の一人が遠足に持って来ていて羨ましかったの
を覚えているが、今ではipodや携帯電話での再生を含めて、何かしらのポータブ
ルオーディオプレーヤーを携帯しての移動が完全に普及し、日常化している。
世界中でこれほどまでに需要がありながら、WALKMAN発売以前にポータブル
オーディオプレーヤーの必要性が訴えられた事はあったのだろうか?
WALKMANに限らずテレビもラジオも、それらが登場する以前からその必要性が
唱えられていたとは思えない。
まあWALKMANやテレビは娯楽に関するもので、生活上の必要性という意味では
低い方になると思われ、そもそも「必要」とは関係が薄いのかもしれないが。

では逆にどういう「必要」が「発明の母」となって来たのだろうか?
一番妥当だと思われるのが薬(医療)に対する「必要」だ。確かに薬(医療)の
発明、発見、改良、開発は古代から「必要」とされて来たに違いない。例えば風
邪に対する特効薬などは、研究され続けているにもかかわらず未だに開発されず、
その「必要」が存在し続けている。

だが、どうも多くの場合は、ある製品や発明品が開発されると、その後から、そ
の品の有用性が認められ、普及し、やがてその品が生活の中に溶け込んで、なく
てはならないもの、「必要」な物になって行くようである。
つまり発明こそが「必要」の母ではないのか?
posted by 浅谷龍彦 at 12:40| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月31日

計算の時代 (3)?

フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第10節、P108で
 『ガリレイは、幾何学と、感性的な現れ方をし、かつ数学化されうるものか
  ら出発して世界へ眼を向けることによって、人格的生活を営む人格として
  の主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によっ
  て事物に生じてくる文化的な諸性質を、すべて捨象する。このような捨象
  の結果、純粋な物体的事物が残り、それが具体的実在として受けとられ、
  その全体が一つの世界として主題化される。ガリレイの手ではじめて、そ
  れ自体において実在的に完結した物体界としての自然という理念が現れて
  くる、ということができるであろう。(中略)
  明らかにそれとともに、二元論もまた準備されたのであるが、それがまも
  なく、デカルトのもとで姿を現してくる。』
と言う。

つまりガリレオによって、今、人が言う客観的な外部世界が見出され、その後、
今度はデカルトによって「コギト」としての主観が見出され、客観/主観の二
元論が現れてくる。

そしてそれに対して、フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
の第9節、P89で次のように指摘する。
 『ガリレオのもとで、数学的な基底を与えられた理念体の世界が、われわれ
  の日常的な生活世界に、すなわちそれだけがただ一つ現実的な世界であり、
  現実の知覚によって与えられ、そのつど経験され、また経験されうる世界
  であるところの生活世界に、すりかえられていたということは、きわめて
  重要なこととして注意されねばならない。』
と。

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posted by 浅谷龍彦 at 23:56| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

計算の時代 (2)?

フーコーは、16世紀の知の方法論を『言葉と物』の第2章冒頭、P42で次のよ
うにまとめている。
 『十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役
  割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似
  なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物の認識を可能にし、それ
  らを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。世界はそれ
  自身のまわりに巻きついていた。大地は空を写し、人の顔が星に反映し、
  草はその茎のなかに人間に役だつ秘密を宿していた。絵画は空間の模倣で
  あった。そして表象はー祝祭であるにせよ知であるにせよーつねに何もの
  かの模写にほかならなかった。』

しかし17世紀になって知の方法が変様する。
ちょっと長くなるが、フーコーは『言葉と物』の第3章を通じて次のようにま
とめている。
 『十七世紀初頭、ことの当非はべつとしてバロックと呼ばれる時代に、思考
  は類似関係の領域で活動するのをやめる。相似はもはや知の形式ではなく、
  むしろ錯誤の機会であり、混同の生じる不分明な地域の検討を怠るとき人
  が身をさらす危険なのだ。』

 『知の基本的経験かつ本源的形態としての類似をしりぞけ、類似のうちに、
  同一性と相違性、計量と秩序の用語で分析すべき雑然たる混合物を摘発す
  る、古典主義時代の思考なのだ。デカルトは、類似を忌避するといっても、
  合理的思考から比較という行為を排除しようというのでも、それを制限し
  ようというのでもなく、逆に、それを普遍化し、そうすることをつうじて、
  それにもっとも純粋な形態をあたえようとする。』

 『長いこと知の基本的範疇ー認識の形式であるとともに内容ーだった類似者
  が、同一性と相違性の用語でおこなわれる分析によって分離されたのだ。
  そのうえ、計量の媒介をへた間接的な仕方であれ、いわば同一平面上での
  直接的仕方であれ、比較は、もはや世界がいかに秩序づけられているかを
  あきらかにする役割を演ずるのではない。それは、思考の秩序にしたがっ
  ておこなわれ、単純なものから複雑なものへと赴くのである。このことに
  よって、西欧文化の《エピステーメー》全体は、その基本的配置において
  変様する。とりわけ、十六世紀の人々がまださまざまな近縁関係、類似関
  係、類縁関係を認め、そこで言語と物とが際限なく交錯しあっていたあの
  経験的領域ーあの広大な場全体が新たな布置をとろうとしているのだ。望
  らなら、この布置を「合理主義」の名で呼んでもよかろう。』

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posted by 浅谷龍彦 at 00:08| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月29日

計算の時代 (1)?

今では誰もが、地球が球体である事を”知っている”だろう。
また同時に、地球が自転しながら太陽の周りを公転している事も”知っている”
だろう。

では、それを見た事がある人は?

16世紀にポルトガルのマゼラン一行が世界一周を果たして「地球が丸い」事が
実証された。しかし地球が回っている、自転している事はどうだろう?
もしかしたら、月面着陸したアポロ11号の宇宙飛行士達は、その着陸から帰還
までの間に地球が自転している様を見ていたのかもしれない。
(月にいた時間が約2時間半で、その間、月面上の活動に追われて、
 そんな暇はなかったか?)
地球の公転ももしかしたら、宇宙ステーションに長期滞在する宇宙飛行士は、
宇宙ステーションから見ているのかもしれないが、その事についての話題を聞
いた事はない。たぶん今更、地球の自転や公転を取り上げる必要もないのだろう。
それほどまでに、地球の自転や公転は周知の"事実"となっているのだろう。
では、どうやって約500年も前の16世紀に、コペルニクスは地動説を唱えたのか?
それは計算によって。

大航海時代のヨーロッパでは、遠洋航海に羅針盤と星図が必須であり、星図の
精度が重要だった。そこでコペルニクスは地動説を基に星の軌道計算を行う理
論を構築した。これにより、それまで使われていた天動説による星図と同程度
の精度の星図が地動説によっても作れるようになった。
その後ケプラーが、惑星の公転軌道が円ではなく楕円であるとして、さらに精
度の高い星図を作り、徐々に地動説が天動説に取って代わって行ったという事
らしい。
そしてその後、ニュートンによる万有引力の発見に行き着く。ニュートンが、
万有引力について書いた本のタイトルは『自然哲学の数学的諸原理』。

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posted by 浅谷龍彦 at 00:10| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月24日

Dead end?

ニーチェやマルクス、ウィトゲンシュタインなどの思考を利用して出来ている
柄谷行人の認識は確かにラディカルだ。だが同時にその認識は、そのまま日常
に持ち込むのは無理な代物でもある。ただ認識として考えるだけなら無理は無
いが、それを行動に移そうとしたら大変な事になるだろう。

例えば柄谷がいう、「他者とのコミュニケーション」を実践しようとしたら、
それだけで途方も無い時間と労力が必要になる。柄谷自身が例に挙げているが、
「他者とのコミュニケーション」が、まだ言葉を覚えていない子供や、言葉の
通じない外国人との対話のように、共通理解の前提が無い者との対話こそを
「対話」だとするものならば、それは、発話のその都度、言葉の内容を互いに
確認、理解し合いながら会話し、それを繰り返し続けると言ったものになり、
たぶん会話は最初の一言を巡ってそこから先に進めないままとなるだろう。
そんな事を日常の中で実践したらどうなる?

その認識がラディカルであっても、
いやラディカルであるがゆえに
すぐ日常に持ち込むには無理がある。
そう、だからそれは正しくても使えない。
いや、正しいから使えない。

ニーチェが指摘するように、言葉と言葉の上に作られる概念、論理学、数学な
どのおよそ人間の思考制度全般は、その真実性というよりもただ有用性によっ
て成立している。しかしながらそのニーチェにしても、その思考を言葉によっ
て動かしているのであって、そもそも言葉が無ければ、ニーチェも何も指摘で
きはしない。
さらにその認識を実社会に適用し、その認識に基づいて人々が行動しようとす
れば、それは物凄く不便で、我慢できない代物になる。何しろそれは言葉、概
念、論理学、数学などの有用性を排除するような指向を持つ思考なのだから。

つまりそのままでは使えない。

ここで行き止まり。
posted by 浅谷龍彦 at 23:08| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月23日

mixture?

ざっくり言って、柄谷行人の思考は次のような認識の上に成り立っている。

ニーチェ
「語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、
 次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。
 無数の多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、
 すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないと
 されることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置
 することによって、発生するのである。」

マルクス
「人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、
 彼らにとって同種的な人間的労働の、単に物的な外皮であると考えられるか
 らではない。逆である。彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において
 価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労
 働として等しいと置くのである。彼らはこのことを知らない。しかし、彼ら
 はこれをなすのである。」

ウィトゲンシュタイン
「われわれば言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくし
 は、これらの現象のすべてに対して同じことばを適用しているからといって、
 それらに共通なものなど何一つなく、これらの現象は互いに多くの異なった
 しかたで類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性な
 いしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」と
 よぶ。」

「われわれが提供しているのは、もともと人間の自然史に対する諸考察である
 が、しかし好奇心をそそるような寄与なのではなくして、何人も疑わなかっ
 たことの確認であり、常にわれわれの眼前にあるがゆえに注意されることの
 なかったことの確認である。」

ここにあるのは、等置と等置によって生まれる同一性の中にあって、忘れられ
た恣意と不当を摘出する認識であり、これらの認識を繋ぎ混ぜ合わせたものが
柄谷行人の思考だと言える。
posted by 浅谷龍彦 at 02:13| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

単独性?

ある場所に多くの人がいたとしても、その人達を一人、二人と数えてはいけない。
そもそも”人間”という概念(集合)が成り立たないのだから。

柄谷行人は『探究2』のP9-P10で
 『私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が
  抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じ
  ている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。
  それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜け落ちて
  いる。(中略)
  といっても、私がこだわってきたのは、「私」のことではない。また、「この
  私」が特殊であるといいたのではない。私はすこしも特殊ではない。私は自分
  がいかにありふれているかを知っている。それにもかかわらず「この私」は他
  のだれでもないと感じている。肝心なのは、「この私」の「この」の方であっ
  て、私という意識のことではない。(中略)
  私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性 this-ness を単独性
  singularity と呼び、それを特殊性 particularity から区別することにする。
  単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独
  性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に
  所属しようのない個体性である。』
という。

ここで柄谷は、「私」を一般性(集合)の中の特殊性(要素)と見るような視点と
は別な視点を語っている。「私」を特殊性/一般性の枠の中で扱わないとすれば、
つまりは、数学や論理学の対象として扱わないのであれば、「私」は取り替えの効
かない、比較不能な、還元されえないものとなる。なぜなら一般性(集合)を前提
にできなければ、「私」と別の「私」を比較することはできないし、なにかの一般
的な概念に還元することもできず、「私」の代わりを誰か別の「私」がするなどで
きるはずもないのだから。
そのように「私」を捉えるために柄谷は、特殊性/一般性という概念に対して単独
性という概念を対置する。

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posted by 浅谷龍彦 at 22:07| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月16日

数える事?

人は何かを、それ”そのもの”をそのまま捉える事はできない。たとえば人は、み
かんを指して、みかんは、黄色い、酸っぱい、軟らかいなどと特徴を並べ上げて説
明するが、ここで既に、みかん”そのもの”ではなく、みかんを、みかんが持って
いるいくつかの特徴(色、味、触感)に還元して説明しているのであり、この特徴
への還元がニーチェのいう単純化、図式化だ。つまり普段、人が具体的だと思って
いる概念がすでに抽象化の結果なのだ。

また人は簡単にもの(物、者)を数える。石が1つ、2つ。人が一人、二人...と
いうように。この数えるという行為自体は簡単だ。けれども、そこに働いている思
考はそれほど単純ではない。
何かを数えるには、まずその数える対象が同じもののグループに属している、とい
う認識が必要になる。数学的にいうと同じ集合に属するという事になる。
たとえば河原にいっぱい石がある時、その石の数を数えるとしたら、まずそれら河
原いっぱいにある物がみな石であるという認識が必要になる。その認識の次に、そ
のいっぱいある石を1つ、2つと数える事ができる訳だ。
ところがニーチェがいうように、石といっても実際は1つ1つ違う石で、同じ石など
1つもない。そうすると、同じものグループ=集合という認識が成り立たない。
”同じ”石などないのだから。

ニーチェは『人間的、あまりに人間的』の19項で
 『数。−数の法則の発見は、いくつか同じ物がある(しかし事実としては同じ物
  などない)、すくなくとも物がある(しかし「物」などない)という、もとも
  とすでに支配している誤謬に基づいてなされている。多数ということの承認に
  は、しばしば現れるなにかがある、ということがいつもすでに前提となってい
  る、しかしまさにここにこそすでに誤謬が支配している、すでにそのときわれ
  われは、ありもしない本質や単一性を仮構しているわけである。』
と書く。

数学は、量を扱う学問といわれる。現代では関係や構造を扱う学問といわれるよう
だ。どちらにしても数学は、あるもの”そのもの”には関心はなく、複数のもの同
士の関係、あるいはあるものの中にある緒要素の持つ構造などを扱う。逆にいえば、
あるもの一つ一つの質などは括弧に入れ、気にしないことで、複数あるものの間に
ある関係や関係の構造だけを明るみに出すのである。

つまり数学はあるもの(物、者)の質についてはなにも語れない。というか語るつ
もりもない。もちろんそれはそれで、多くの有用な認識をもたらすものであるのだが。。。
posted by 浅谷龍彦 at 04:04| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

単純化、等置、有用性?

人は生きて行く中で経験した事を記憶し、次に同じような場面になった時には、前
の経験を知識として利用する。そしてそのような経験を繰り返し、知識を増やして
行く事で、より自己保存の確率を上げて行く。

ニーチェは『権力への意志』の515項で
 『「認識する」のではなく、図式化するのである、−私たちの実践的欲求を満た
  すにたるだけの規整や規格を混沌に課するのである。
  理性、論理、範疇が形成されるときには、欲求が、すなわち、「認識する」欲
  求ではなく、理解し算定しやすくすることを目的として、包摂し、図式化する
  欲求が、決定的となっていたのである・・・(類似なもの、同等なものへと調
  整し、案出するはたらき、−あらゆる感官印象が通過するのと同じ過程が、理
  性の発達である!)ここではたらいていたのは、先在的 な「イデア」ではなく、
  私たちが事物を粗雑にまた同等化してながめるときにのみ、事物は私たちにとっ
  て計算し取り扱いやすくなるという有用性である・・・』
としている。

人は複雑な自然を、その複雑さのまま理解する事はできない。そこで、ある一部分
だけを取り出して分析したり、逆に細部は省略して大きな全体を見てその統一性を
把握したりする事で、なにかを省略、単純化、簡略化する事で事物を”扱いやすく”
し、理解して行く。もちろん言葉を使って。
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ラベル:ニーチェ
posted by 浅谷龍彦 at 16:18| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

知覚の扉?

動物はみな自分の必要なものを見る目を持っている。いつも光の届かない土の中に
いるモグラは目が退化しているが、それはモグラが目を必要としてないからだろう。
人間には網膜に錘体細胞という細胞が3つあって赤、青、緑の三原色を感じ取るら
しい。猫には錘体細胞が青と緑の2つしかないようなので赤は知覚できない。
猫はもともと夜行性なので、その目は人間の1/6の光で物が見え、ものの動きに反
応する動体視力が発達している。暗いところで獲物を探す猫にとって色はあまり重
要な情報でないのだろう。それに対して鳥類は錘体細胞が4つあって色覚が発達し
ているらしい。空から小さい虫などを見つけるのに色が重要になるのかもしれない。

しかし錘体細胞はあくまで色を感じ取るだけの器官だ。人間が見る複雑な色は実は
錘体細胞で感じ取った色の情報を脳が合成しているもの。つまり色は物にあるので
はなく、脳が情報を元に作ったイメージに付けらたものなのだ。だから色が重要で
なければ、たとえ色を知覚はしても脳内で処理して合成したりしないかもしれない。
(すでにここに価値判断がある)

ちょっと前、去年の12月のニュースになるが、京都にある国際電気通信基礎技術研
究所という所で、脳の活動パターンからその脳が見ている=作っているイメージを
コンピュータで再現する事に成功した、というニュースが話題になった。つまり脳
がどうやって視覚情報を映像化するか、その作業手順がわかったという事だ。今は
まだアルファベット1文字を再現する事ぐらいしかできないようだが、この技術が
進めば、人が寝ている時に見ている夢を、外から見る事も可能になるという。この
事からもわかるように、人が見ているのは、外界そのものではなく、脳が加工編集
した映像だという事だ。だから目が見える状態でも、脳の映像化機能に障害が起こ
ると、たぶん物は見えなくなる。そうすると夢も見れなくなるのだろう。

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posted by 浅谷龍彦 at 23:40| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

その可能性の中心?

ところで、柄谷行人は自身の批評方法についてどう語っているだろう?
柄谷は『批評空間3-2号』にある「『トランスクリティーク』をめぐる共同討議」
の中で次のようにいう。
 『ぼくは批評家としてやってきて、よく人をけなしていますが(笑)、それ
  はたんなんる行きがかりであって、けなすために書く情熱はないんですよ。
  ひとのことをやっつけるために調べるくらいなら、寝ていたほうがましで
  す(笑)。そういうわけで、ぼくは徹底的にカントとマルクスを褒めまくっ
  ています。(中略)
  だから、「柄谷はそう言うけれど、マルクスはやはりこうじゃないか」と
  言われたら、「それはそうです」と言います、「しかし、そんな当たり前
  のことをいって、何か面白いんですか?」と(笑)。そのよなくだらない
  ことを書くのが批評だとは、ぼくは思わないわけです。』

これは方法的に「転移」する事を意味している。柄谷はこれまでマルクス、漱石、
フロイト、ウィトゲンシュタイン、カントなどを論じてきたが、柄谷はこれらの作
家、思想家達を彼自身の課題の意味を「知っているはずの主体」と見なしている。

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2008年11月24日

法の起源?

ジジェクは法の正当性について『イデオロギーの嵩高な対象』の第1章(P62)で
 『このように、「抑圧」されているのは、法の曖昧な起源などではなく、法
  は真理としてではなく必然的なものとして受け入れられなければならない
  という事実、法の権威には真理は含まれていないという事実なのである。
  法の中には真理がある、と人びとに信じ込ませる必然的な構造的幻想は、
  転移のメカニズムをそっくりあらわしている。転移とは、法という愚かで
  外傷的で辻褄の合わない事実の背後には「真理」「意味」があるという仮
  定である。』
としている。

つまり法は正しいから受け入れられるのではなくて、受けられているから正しい、
という事らしい。これが「転移」の論理だ。一旦ある法律を受け入れた(転移した)
人にはその法律が正しく見えてくる。その人になんでその法律を受け入れるのか?
と聞いてみても無駄だ。その法律が正しいからだと答えるだろう。(笑)
受け入れた(転移した)人にその受け入れ過程を聞いても覚えてはいない。その過
程は「抑圧」されてしまっているから。その人にとってその法律の受け入れ過程は
謎であり、ブラックボックスになってしまう。つまり「国家状態」の中にいる人に
とっては「国家状態」が当たり前で、なぜ「国家状態」の中にいるのか?と改めて
聞かれても本人にはその理由が説明できない。

人がある法律を受け入れるという事は、その法律を施行した国家を受け入れるとい
う事であり、「国家状態」に入る事を意味する。ところでホッブスは国家の生成過
程について何といっていただろうか?

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posted by 浅谷龍彦 at 12:24| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月09日

スラヴォイ・ジジェクと柄谷行人?

柄谷行人は『探究1』で、「他者とのコミュニケーション」における「他者」の例
として子供、外国人など自国語を理解しない人を挙げているが、その他にも精神に
異常があるとされる人などもその例に加えている。それはフロイトが始めた精神分
析が精神異常の人との対話を治療の手段としており、そこに「他者とのコミュニケー
ション」を見ているからだ。

フロイトの始めた精神分析は、分析の対象者、被分析者が連想する言葉の中から、
その人の心の構造を読み取っていってその問題の仕組みを明らかにしようとするも
のである。その分析過程で重要になるのが「感情転移」という状態を作る事にある。
「感情転移」とは、あるものに対する感情移入とか同一化、「思い入れ」を起こさ
せるような事をいい、要するにそれは被分析者に分析者を恋させる状況を作り出す
事をいっている。(疑似恋愛というのかな?)

フロイトがヒステリー、強迫的ノイローゼと呼び、日本では神経症などと呼ばれて
来た問題を抱える人達を分析するに当たって「感情転移」を利用するのは有効な手
段となっていた。ところがどうしても「感情転移」を起こせない人達がいて、フロ
イトはこの人達の前では精神分析が無力であると認めていた。そしてこの人達の病
名をナルシシズム的ノイローゼとしていた。日本では統合失調症といわれ、英語で
はスキゾフレニアと呼ばれる病気の事である。

柄谷行人は、このスキゾフレニアとの対話−というよりは対話の失敗−に精神分析
の「他者」を見出して注目し、何度となく言及している。これに対して、スロベニ
ア(旧ユーゴスラビア)出身の思想家スラヴォイ・ジジェクは、「フロイトに還れ」
と主張したフランスのジャック・ラカンの思想を映画や小説、あるいは政治情勢や
社会状況に適用して、そこにある精神構造を明きらかにして見せる思想家だが、し
かしその分析はほとんど、どこにどういう形で「感情転移」があり、それがどうやっ
て生成され破綻するかを説明しているようなものとだといっていい。なので僕が読
んだ範囲では、ジジェクはその著作の中でヒステリーや強迫的ノイローゼについて
頻繁に語るが、逆に精神分析の「他者」であるスキゾフレニアについてはほとんど
言及がない。

ジジェクにとって「感情転移」が分析の「鍵」だが、柄谷にとっては「感情転移」
は「共同体」の「徴」になる。
posted by 浅谷龍彦 at 20:40| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

「戦争」と「他者とのコミュニケーション」?

『探究2』のP237-P238で柄谷行人は、ルソーの『言語起源論』の次のような箇
所を引用している。
 『この野蛮の時代は黄金時代であった。というのは人びとが団結していたか
  らではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人だと思って
  いたという。そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知
  らなかったし、欲しがらなかった。彼の欲求は彼をその同胞に近づけない
  で、遠ざけるのであった。人びとは出会えば、お互いに相手を攻撃したと
  いってもよい。しかし彼等はめったに出会いはしなかった。いたるところ
  戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった。』

この引用は、『探究2』P235での次の主張を説明するために引かれたものだ。
 『おそらく人間が本来共同体的であるということを疑った最初の思想家はル
  ソーであるといってよい。むろん、ホッブスのように「自然状態」から出
  発して、国家(共同体)の形成の必然を説いた者はいる。(中略)
  しかし、ルソーの場合、自然状態あるいは自然人は、共同体の自明性を疑
  うために提起されたのである。』

ここで柄谷は、ルソーのいう「自然状態」を「共同体」批判として読んでおり、柄
谷もまた「自然人」は互いに出会えば戦い、「戦争状態」にはなるが、そもそも
「自然人」はめったに出会う事はなく、分散して生きていたため「平和」だったと
いうルソーの認識を共有しているようだ。

そもそもコミュニケーション成立以前の人々は、当然1人1人バラバラで、コミュニ
ケーションが成立していないのだから意思の疎通もなにもない。さあこれからどう
やってコミュニケーションとろうか?という状況で、未だ敵か味方かの区別もない。
それをこれからどうやって識別していこうか、という段階だ。

ホッブスは「自然状態」について、『リヴァイアサン』の第13章(P210)で
 『《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
  これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
  共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
  にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
  ある。』
としている。

だが、ここでいう「各人の各人に対する戦争」とは、まだコミュニケーションが確
立される以前に、人々が悪戦苦闘しながら最初のコミュニケーションを成立させて
いく過程を表しているのではないだろうかと、僕は今考えている。「戦争」といっ
てもまだ人々は1人1人バラバラの状態なのだから、今、普通にいう戦争というより
は、ほとんどケンカのような争いか、闘争といった方が近いだろうと思う。たぶん
ホッブスはここで、「国家状態」と「自然状態」の対比のために人を国家に見立て
て「戦争」という言葉を使ったのだろう。

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posted by 浅谷龍彦 at 19:59| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月27日

さらにもう1つの自然状態?

柄谷行人の思索を大雑把に一言でいうと共同体批判という言葉に要約できるのでは
ないかと思う。柄谷行人のいう「共同体」とは、共通の規則やルールを共有し、前
提としている組織やシステム、制度などといったものことらしいのだが、柄谷行人
はそこにある規則やルールをあらためて問い直す事を繰り返している。そして共通
の前提を取り払った後に現れる剥き出しのコミュニケーションについて語る。

柄谷行人は『探究1』のP228-P229で
 『たとえば、二人で話し合っていれば−ふつう対話とよばれる−、一対一関係が
  あるというわけではない。とうのは、この二人は、いわば第三者として、共同
  の規則を前提しているからである。
  私が対関係とよぶのは、共同的・一般的な規則がたんに、”事後的”にしか成
  立しえないような関係のことである。(中略)
  これに比べると、いわゆる対話には、明らかに他者はいても、《他者》はいな
  い。いいかえれば、他者の”他者性”がない。そこでは、一対一の関係は、一
  般的な他者との関係にひとしく、さらに自己自身との関係(自己意識)にひと
  しくなる。そこで他者を認めるとしても、それはもう一つの自己意識でしかな
  くなる。』
と書いとります。

つまり普段、人が交わしている会話は、もうお互いのことを分かり合った上で交わ
しているので、それは自分の分身と会話しているようなものに近くなっているとい
うことやね。きっと。それでそのような会話が成り立たない子供や外国人とのコミュ
ニケーションを例にあげて。。。

『探究1』のP10-P11では
 『外国人や子供に教えるということは、いいかえれば、共通の規則(コード)を
  もたない者に教えるということである。逆に、共通の規則をもたない他者との
  コミュニケーション(交換)は、必ず「教える−学ぶ」あるいは「売る−買う」
  関係になるだろう。(中略)
  「教える−学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態
  である。これはけっしてアブノーマルではない。ノーマル(規範的)なケース、
  すなわち同一の規則をもつような対話の方が、例外的なのである。だが、それ
  が例外的にみえないのは、そのような対話が、自分と同一の他者との対話、す
  なわち自己対話(モノローグ)を規範として考えられているからである。』
と書いとります。

ここでも柄谷行人が注視するのは、出来上がったコミュニケーションではなくて、
完成されたコミュニケーションが当たり前の事として忘れてしまう、成立以前の
「原初の光景」、コミュニケーションの「自然状態」といえると思う。
posted by 浅谷龍彦 at 21:18| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月08日

もう1つの自然状態?

柄谷行人は『<戦前>の思考』のP63-P64で
 『ホッブスが国家を導き出した論理は、マルクスが『資本論』の「価値形態論」
  で、商品交換から貨幣を導き出した論理と同型です。つまり、すべての商品の
  なかから、一つの商品が超越的なもの(貨幣)として析出され、それ以外の商
  品はこの商品=貨幣を通してのみ交換されるようになる。ホッブスは、すでに
  自然権の「所有者」としての各人を想定し、そこから交換について考えた思想
  家だといえるのです。』
と書いとります。

さらに『トランスクリティーク』のP400でも
 『ホッブスは主権者を説明するために、万人が一人の者(リヴァイアサン)に自
  然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを
  等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じ
  である。ホッブスはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形
  態3にいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与え
  られるが、これは商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことご
  とく一般的等価形態から排除されているからである》。すなわち、ホッブスは
  国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同
  様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初
  に見いだした。』
と書いとります。

だとすれば逆にいうとマルクスが価値形態論で語った「相対的価値形態」、貨幣形
態から遡及的に見出された”単純な価値形態”である「相対的価値形態」というの
は商品の「自然状態」といえるのではないだろうか?

柄谷行人も『マルクスその可能性の中心』のP32で、相対的価値形態について
 『この形態が未完成だというのは、むろん貨幣形態を完成態とみなす目的論的思
  考である。それは未完成であるどころか、”完成された”もののなかで見うし
  なわれる原初の光景なのだ。』
としております。

ということはやっぱりマルクスのいう「相対的価値形態」とは商品の「自然状態」
といえるのではないかな?
posted by 浅谷龍彦 at 22:19| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月26日

自己保存?

ただの作り話でしか無いような「自然状態」と言う仮説が説得力を持つとしたら、
それは何によるものなのだろう?
僕の考えでは、論の出発点に置かれた「自己保存」という法則の確実性が「自然状
態」の話にその説得力を供給している。およそ生物ならばその行動の目的は、自身
の生命を維持する事であるというのがその認識であり、生物の行動の基本原理とさ
れるものだ。この点についてはスピノザからルソーまで当然の様に無批判で受け入
れていて、それぞれの論を進める上でも当然の前提として語られている。

ホッブスの国家論はここから演鐸される。まず「自己保存」の為に行動する権利と
して「自然権」が導き出される。がしかし、個々の「自然権」は互いに衝突し合い、
「各人の各人に対する戦争」状態に陥る事になる。このため、この様な状態になる
と人間の理性が次の様な「法」をもたらすとされる。

 「他人が自分に対してしてくれるように、あなたがともめるすべてのことを、
  あなたが他人に対しておこなえ」(聖書)

 「あなたに対してなされるのを欲しないことを、他人に対してしてはならない」
  (ローマ法)

 「自分の望まないことは人にしむけないこと」(論語)

これが「自然法」だ。

ロック、モンテスキュー、ルソーはホッブスの「自然状態」論を批判して、「自然
状態」は戦争ではなく平和だったとしているが、その彼らも平和な「自然状態」の
後にはホッブスの「自然状態」と同様の闘争が起こるとしており、ロックとルソー
はそれを「戦争状態」と呼んでいる。どっちにしても調停すべき闘争が起きなけれ
ば「国家」の必要性が語れない訳で、其の点で大差はないように思える。
posted by 浅谷龍彦 at 01:17| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月30日

自然状態と言う神話?

ホッブスが『リヴァイアサン』の中で言い出した人類の「自然状態」とは一体何な
んだろう?ホッブスの説明ではそれは個々人間での戦争状態であり、現代で言えば、
それ以上上位の主権が存在しない主権国家間の関係を個人間に見出した物で、歴史
的あるは考古学的に考察した過去の事ではない。それは国家の無い状態と言うより
は国家の外にある状態の事の様である。ではなぜホッブスはそんな話をする必要が
あったのか?

ホッブスが生きた17世紀当時は絶対王政の時代だった。そして王の支配を正当化す
るイデオロギーは王権神授説と言われる物で、王は神の地上の代理人として国を支
配するのだと言う物だった。この王権神授説は聖書をその根拠の出典としていて、
ほとんど神話の様なイデオロギーで、これに対抗する為にはホッブスも別の神話を
用意する必要があったのではないだろうか?そしてそれは神の神話に対抗する為の
民の神話ではなかったのか?

ホッブスは国家の成立要因を神から民に書き換える為に「自然状態」と言う理論的
な仮想モデルを語る必要があり、民を国家の基礎に据える為の神話を語る必要があっ
たのだと思われる。ただここで言う民とは民族と言う意味での「民」ではない。
近代の国家は国民国家、英語で"Nation-State"と書くが、国民(民族)が"Nation"
で国家が"State"になる。記述の並びでは"Nation"が先だが、できたのは"State"
が先で"Nation"が後からやって来る順になる。ホッブスの頃のイングランドはピュー
リタン革命や名誉革命が起こって近代的な国家="State"が形成される時期にあたり、
国民(民族)="Nation"がやって来るのはフランス革命以降になる。ここで言われ
て居るのは国民(民族)に纏められる前のバラバラの民である。

ホッブスが言い出した「自然状態」はその後スピノザ、ロック、ルソー、モンテスキュー
などに批判的に継承され、ルソーによって「社会契約」と要約される社会契約論と
なり、近代国家の理論的基礎に成って行くが、その辺の話はまた後で。。。
posted by 浅谷龍彦 at 23:57| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする