2013年10月29日

自然状態(10)

この後ヒュームは、「原始契約ないしは人民の同意というこの原理に対して、
もっと本格的な、少なくともより哲学的な反論」をするというのだが、そこ
で語られるのは独自の道徳的義務と、その「道徳的義務」から導かれる彼自
身の“社会契約説”とも言える論理である。ただし「契約」が「服従」に変
えられてはいるが。

曰く、「道徳的義務」には二種類、自然本能的なものである愛情や感謝の念
や同情と、正義や誠実さへの反省的な義務意識とがある。そして…

 もしもわれわれを導くものが原初的な本能だけであるとすれば、われわれ
 は放埓な自由にふけったり、他人を支配することを望んだりするのが落ち
 だろう。したがって、こういう根強い欲望を犠牲にしてまで、平和と社会
 秩序とのために尽くすようわれわれを仕向けるものがあるとすれば、それ
 は反省以外にない。実際、ほんの僅かばかりの経験と観察からだけでも、
 社会は統治者の権威なしにはおそらく維持されえないだろうこと、さらに
 またこの権威も、もしもそれに対して厳格な服従が捧げられないならば、
 たちまち地に落ちてしまうに違いないだろうことは、十分理解されること
 である。
 [『世界の名著 27』「原始契約について(P551)中央公論:大槻編]

この引用の最初でヒュームは自身の「自然状態」観を語っているが、その認
識にホッブズとの違いはなく、続けて出て来る「反省」も、ホッブズが理性
から導き出されるという「自然法」のようだ。そしてヒュームは社会維持の
ためには統治者が必要で、尚且つ統治者への人々の「服従」が必要不可欠で
ある事を強調するのだが、この「服従」とは果たして「契約」ではないのだ
ろうか。「契約」が適当でないとしても、「服従」の中に「黙認」という
「同意」が含まれてはいないだろうか。

実はヒューム自身その事に気付いており、この後も「契約」と「服従」を巡っ
て議論を続けるのだが、最後まで「契約」を否定しきる事が出来ずに終わる。

人々が被支配を内面化し、強制ではなく積極的、肯定的に支配を受け入れる
論理を説こうとするには、何かしかの「契約」あるいは二者間の「合意」を
想定するしかない事がヒュームの苦闘からも見て取れる。

結局ヒュームは「原始契約について」では社会契約説を否定しきれず、
「自然状態」については、ホッブズとさほど認識に違いはないであろう事が
窺えた。だとすれば直接言及は見当たらなかったが、自己保存についてもそ
れ程認識に隔たりはないだろうと推察される。
posted by 浅谷龍彦 at 16:02| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月21日

自然状態(9)

ヒュームは社会契約説を否定しているとされる。ヒュームは社会契約説と自
己保存をどう捉えているのだろうか。

ヒュームは「原始契約について」というエッセーで、社会契約説を取り上げ
ている。

ヒュームは社会契約説を歴史的に捉え、過去の歴史において社会契約説が語
るような人民の同意による国家形成など、どこにも記録がないし、記憶も残っ
てはいない、という。

  現に存在している、あるいは歴史のうちになんらかの記録をとどめてい
 る政府は、そのほとんど全部が、権力の奪取かそれとも征服に、あるいは
 その両方に起原を持っており、人民の公正な同意とか自発的な服従とかを
 口実にしたものはない。
 [『世界の名著 27』「原始契約について(P541)中央公論:大槻編]

だが、ヒュームにいわれるまでもなく、社会契約論者の誰も「契約」が過去
にあったのだなどとは主張していない。「自然状態」とは「国家状態」を括
弧に入れ、遡行する事で論理的に構成されうる人間の行動様式の総体である。
歴史的、考古学的に実証しうるものではなく、論理的に考えうるものである。

ヒュームはまず明確な同意、契約の存在を否定する。だが一方で次のように
もいう。

  ここで私が言おうとしているのは、人民の同意が現に存在している場合
 にも、なおそれが政府を支えるひとつの正当な基礎ではないなどというこ
 とではない。人民の同意は、確かに何物にもまして優れた神聖な基礎であ
 る。
 ただ、私が主張したいのは、(中略)政府の基礎は他にもあることが承認
 されなければならない、と言いたいのである。
 [『世界の名著 27』「原始契約について(P544)中央公論:大槻編]

つまりヒュームは、人民の同意が権威の源泉である事は認めるが、それが唯
一ではないのだという。しかもその人民の同意は、国家形成時ではなく、国
家形成後に時間を経て後からやって来るのだと主張する。

国家は力(暴力)で成立し、それに対して人民は服従するが、それは「恐怖
と必要のため」であって、同意したからではない。だが時間が経つにつれ必
要が黙認へと変わりやがて同意となるとヒュームはいう。

  最初の政府は暴力によって樹立され、人民は、必要上それに従った。そ
 して、その後の統治も力によって維持され、人民によって黙認される。そ
 れは人民にとって選択の余地のあることではなくて、どうしようもないこ
 とである。人民には、自分たちの同意が、初めて君主に資格を与えるなど
 とはとても考えられない。にもかかわらず、彼らは進んで同意する。なぜ
 なら、彼らには、君主は長い間権力を保持することによって、すでに、自
 分たちの選択や意向とは無関係に、その資格を得ているように思えるから
 である。
 [『世界の名著 27』「原始契約について(P545)中央公論:大槻編]

実はホッブズもヒュームと同じような事を考えている。ただし歴史的にでは
なく、論理的に。

ホッブズは、国家あるいはコモン−ウェルスには《設立されたコモン−ウェ
ルス》と《獲得されたコモン−ウェルス》とがある、という。
《設立されたコモン−ウェルス》とは、人々の合意によって権力が集約され、
確立される、という通常いわれる社会契約説だが、《獲得されたコモン−ウェ
ルス》は、ある力を持った人物や集団が、その力で権力を確立するという、
ヒュームが歴史的だとする権力形態に対応する。

そしてホッブズはヒュームとは違い、《獲得されたコモン−ウェルス》にお
いても人々の同意が権力と権威の基礎であり、《設立されたコモン−ウェル
ス》とはただ「恐怖」の方向が違うだけだという。

 《設立によるコモン−ウェルスとどこがちがうか》そして、この種の支配
 または主権は、設立による主権と、ただつぎの点でことなる。すなわち、
 自分たちの主権者をえらぶ人びとは、相互の恐怖によってそうするのであっ
 て、かれらが設立するその人に対する恐怖によってではないのだが、いま
 のばあいには、かれらは、自分たちがおそれるその人に、臣従するのであ
 る。どちらのばあいにも、かれらはそれを恐怖のためにおこなうのであっ
 て、このことは、死や暴力への恐怖から生じるすべての信約を無効とみな
 す人びとによって、注目されるべきである。

 [『リヴァイアサン』第20章(P70)岩波:水田訳]

つまり「自然状態」において、《設立されたコモン−ウェルス》が、人々が
互いの「恐怖」(自身の自己保存が脅かされる可能性への警戒)を解消する
ために合意し、設立されるのに対して、《獲得されたコモン−ウェルス》は、
強力なひとりの人物あるいはひとつの集団に対する「恐怖」を解消するため
に、人々が合意し、設立される。どちらの場合にも、設立には人々の同意が
あるのだとホッブズはいう。

ヒュームもホッブズも、力に対する「恐怖」から人々が国家形成を受け入れ
るという点では同じだが、ヒュームはそこに「契約」を認めず、ホッブズは
「契約」があるのだという。

ヒュームはホッブズに対してこういうだろう。力に対する「恐怖」を背景に
した契約など契約ではないと。人々は、合意や同意するのではなく、合意さ
せられ、同意させられるのだと。それは契約ではなく強制だと。

しかしホッブズは「自然状態」においては、「恐怖」によって強制された契
約でも「国家状態」でとは違い、契約は有効なのだという。

 《恐怖によって強要された信約は、有効である》まったくの自然の状態で、
 恐怖によってむすばれた信約は、義務的である。たとえば、私が敵に対し
 て、自分の生命とひきかえに、身代金または役務を支払うことを信約すれ
 ば、私はそれに拘束される。すなわち、それは、一方が生命についての便
 益をえて、他方がそのかわりに貨幣または役務をえるという契約であり、
 したがって、(まったくの自然の状態においてのように)ほかにその履行
 を禁止する法がないところでは、その信約は有効である。

 [『リヴァイアサン』第14章(P229)岩波:水田訳]
posted by 浅谷龍彦 at 18:26| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月01日

自然状態(8)

ホッブズの議論の核心には自己保存がある。ホッブズは、人がより確実に自
己保存を実現するためには、「自然状態」での不安定な共同性では不十分な
ため、人々の自己保存の欲求を制御しうる力、権力を生成し「国家状態」の
中で調整、調停していく事が必要だとしている。だから「国家状態」では、
自己保存の欲求は抑制され調整されなければならないが、決して放棄したり、
消滅したり、完全に譲渡したりできるものではない。

自己保存の欲求あるいは自己保存の法則こそ、ホッブズに限らずスピノザ、
ロック、ルソーなどそれぞれの社会契約説と呼ばれる理論の核心をなすイデ
オロギーであり、近代の国民国家(naition-state)の論理もその上にある。
自己保存の欲求の抑制と調整が国民国家の「真理」である。


posted by 浅谷龍彦 at 02:08| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月31日

自然状態(7)

柄谷行人は『探究2』の自然権という章の中で、いつもの語り口で、スピノ
ザを持ち上げるためホッブズに否定的に言及している。曰く「ホッブズとち
がって、スピノザは国家に対してどの人間も、全面的に「自然権」を譲渡す
ることはありえないという。」

しかしこの柄谷のホッブズに対する認識が、通り一遍の皮相なものだという
よりも、ホッブズをスピノザの対立項に仕立て上げる必要に迫られた、論述
上の都合によるものだという事に注意する必要がある。

『リヴァイアサン』をまともに読めば、先の認識は「ホッブズとちがって」
ではなくは「ホッブズにならって…」か「ホッブズと同様に…」なるはずだ。
この章で引用されているスピノザの思想とホッブズのそれとの間には、柄谷
がいうような対極性や違いはない。ホッブズが自然権の全面的な譲渡を否定
していた点については、前回の投稿内容を読んでもらえれば確認していただ
けると思う。

ここからは余談だが、『探究1』、『探究2』での柄谷はスピノザに対してホッ
ブズを否定的に扱ったように、ウィトゲンシュタインやデカルトに対してカ
ントを否定的に扱っている。しかし柄谷は『探究3』から一転してカントを
肯定的に、しかも『探究1』、『探究2』でカントに対してウィトゲンシュタ
インやデカルトを持ち上げたのと同じ理由で、カントを取り上げ始める。

その言い訳が「探究3」の連載(第二回)にある。
「『探究1・2』において、私は、ほとんどカントに対して否定的に言及して
いる。あれほどデカルトをデカルト主義の通念から守ろうとしているにもか
かわらず、カントにかんしては、ほとんど通念に従ったことを認めなければ
ならない。今私が試みたいのは、いわば、そうした読解をカント自身に振り
向けることである。」

この告白が真実であるならば、柄谷が否定的に扱う思想家達については、そ
の否定性を疑ってかかる必要がある。すると当然、肯定的に扱われている思
想家達の肯定性にも疑いが及ぶ。だから柄谷の著作は全て注意深く読まなけ
ればならない。

柄谷はまた、「探究3」の連載開始冒頭では次のように書いている。
「『探究』の連載を終えたのは一九八八年の秋である。(中略)以来四年も
経ってしまった。当初、ホッブス、つまり法と国家の問題について、あるい
はマールブランシュ、つまりオケイジョナリズムの問題について書くつもり
でいた。」

しかし、カントについては「探究3」以降も『トランスクリティーク』、
『世界共和国へ』などで独自の読解を続けている柄谷だが、ホッブズについ
ては今も相変わらず通念通りの読解を繰り返している。
posted by 浅谷龍彦 at 14:49| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月31日

自然状態(6)

カントは「世界市民という視点から見た普遍史の理念」という論考の中で、
人には非社交的な社会性があるという。非社交的社会性とは、他者と対立し、
孤立し、社会の形成に抵抗する傾向の事だとカントはいう。

またカントは、この非社交的社会性こそが人々を互いに競合(闘争)に仕向
け、それによって人類が発展してきたのだという。人に非社交的社会性がな
く、ただ社会性だけがあり常に調和的であったなら、その状態のままに留ま
まり、牧歌的で何の変化も発展もない生活が続いたであろうという。

このカントのいう非社交的社会性が、自己保存の法則である自然権を意味し
ているのは明らかである。カントはあくまで「自然状態」ではなく、国家状
態、社会状態、市民状態の内での人の傾向をいっているのだが、それがホッ
ブズのいう「自然状態」を元にしているのは間違いない。

非社交的社会性とは、国家状態内での自然権の事である。国家生成の際に譲
渡される自然権だが、それが各人から完全に譲渡され得るものではない。
自然権は人の生きる欲求、自己保存の法則だから、人がその欲求を消し去る
という事は、死か廃人を意味する。だから、国家生成の際に自然権を譲渡す
るといっても完全な譲渡などは有り得ず、部分的な譲渡となる。部分的な譲
渡とは自然権の抑制、抑圧の事だ。

ホッブズも、《人が、かれ自身を防衛しないという信約は、無効である》と
いう見出しのある節で、「自分自身を死と傷害と投獄からすくうという権利
を、譲渡または放置することはできない」と言い、国家状態内においても自
然権が残る事、逆に言えば自然権の完全な譲渡は不可能である事を語ってい
る。

そもそも自然権、自己保存の欲求の抑制がかえってそれらの確保を確実にす
るからこそ、人は「自然状態」から国家状態へと移入するのだから、自然権
を失うような事を自ら望むはずもない。

自然権の完全な譲渡とは自己保存の放棄であり、生きる欲求の喪失である。
posted by 浅谷龍彦 at 00:34| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月30日

自然状態(5)

さらに別の共同性の源泉もある。それは、死を前提とする種の保存原理だ。
自然権の行使は生存権の確保、自己の生を最大限拡大しようとする試みだが、
その試みを越えて、死は必ず訪れる。

種の保存は、自己保存の直接的な自己拡張の代わりに、子孫への自己複製を
通じての間接的な自己拡張を目指す。その自己複製による間接的な自己拡張
のためには、生殖相手が必要であり、子供が生まれた後は育てる必要が出て
くる。

特に、人の子は生まれた時点では何もできない。立てるように為るまでに1
年以上もかかる。草食動物の子が1時間ぐらいで立ち上がるのに較べて、何
と時間の掛かる事か!

子供を子孫を育てるためにまた共同性が生まれるのも必然である。だがそ
の共同性も確実で永続的なものではないという事もまた想像に難くない。
子供は成長し、一人前になると育ててもらった事など忘れてしまう。
そして成長とともに、その子もまた自身の自己拡張を目指す事になる。
posted by 浅谷龍彦 at 21:51| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月20日

自然状態(4)

だが国家の生成に話を進める前にもう少し「自然状態」に留まろう。
「自然状態」を想定する事で見えて来るのは人が生きるための2つの法則だっ
た。1つ目は、人は自然権の行使によって自身の命を保つ、という自己保存
の法則であり、2つ目は、その自然権の全面的な行使がかえって自己保存の
法則にとって不利益となる、という逆説だった。

ここでは、自然権の全面的な行使がかえって自己保存の法則にとって不利益
となる、という逆説について反対から見てみる。今度は、欲求の拡大を継続
して行くためには富の独占を諦め、分配を拡大して行かなければならなくな
る事を示す。つまり、自然権行使の部分的な断念が欲求の拡大を可能にする。

「自然状態」において、もの凄い強い人がいて、略奪の限りを尽くして色々
な物を手に入れていたとしよう。彼は片っ端から欲しいものを手に入れる事
が出来、実行して行った。だがやがて彼は一人で手に入れられるもの量の限
界に達する。奪うだけではない。奪ったものを維持、守る事もしなければな
らない。一時的に奪ってもすぐに奪い返されては手に入れたとは言えない。

そうすると当然一人で手に入れられるものには限界が来る。それに一生とい
う長いスパンで見て、彼は死ぬまで年中無休で24時間戦い続けられるだろう
か?若いうち、体力のあるうちはいいが年老いてもなお戦い、生き残れるか?
彼は他人から物を奪い続けられるだろうか?

もし彼が人間であるのならそれは無理だろう。まず人間なら寝ないといけな
い。だが略奪を繰り返していれば当然略奪の被害にあった人達も多いはずで、
その多くは彼を恨む敵となっていることだろう。細心の注意を払って寝ない
と、寝首を掻かれる恐れが出て来る。

ここで彼は二つの理由から独占を諦める必要に迫られる。一つ目は、一人で
手に入れられる量の限界を超えて奪い続けるために、二つ目は、奪った物を
守り維持するために、「仲間」を作らざるを得なくなるから。

「仲間」を作るという事は、「仲間」になる奴からは何も奪わない、奪えな
いと言う事になる。でなければ誰も「仲間」になってくれはしない。
だから「仲間」を作る必要が出て来た段階で、誰からでも奪い続けると言
う事は出来なくなる。更に「仲間」を作ったら、それ以降、略奪物を分け与
えなければならなくなる。それも「仲間」が納得するだけの物を分けないと、
今度は裏切られて「仲間」に寝首を掻かれかねない事になる訳で、増々自分
の取り分を削らなくてはならない状況に追い込まれて行く。

だからこの強者は獲物からの自分の取り分をどんどん減らして行く事になる。
だが、獲物が大きくなれば取り分の割り合いは減っても、一人で奪う以上の
量の獲物を得られる事になる。

これはだが、奪い取る事だけでなく、何かを採るのでも作るのでも変わらな
い。結局一人で得られる物を超えて更に何かを得ようとすれば、誰かと協力
しなければならず、協力するからには得た物を分け合い、分配せざるを得な
くなる。

つまり「各人の各人に対する戦争」そのものが、ある種の共同性をもたらす
事になる。各人の欲望が各人の肉体的条件の限界を乗り越えようとする時、
必然的に他者との共同が立ち現れる。

しかしここで現れる共同体はまだ「国家」ではない。「国家」とは、奪う者
達の共同体と奪われる者達の共同体とが統合されて形成されるものだから。
posted by 浅谷龍彦 at 00:07| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月19日

自然状態(3)

「自然状態」に生きる人々は、それぞれの能力だけを頼りに自然権を互いに
行使し合い暮らしている。だがそれは常に奪い合い、争いあっている状況を
意味する訳ではない。重要な事は、争いなどを抑制し、調停しうる機構がな
く、争いの終結が見込めない状況にある。ホッブズもいうように「自然状態」
とは「たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、戦闘によってあらそ
うという意志が十分に知られている一連の時間にある。」事をいう。

しかし、争いを抑制、調停する機構がなくとも、人々は互いに争いを回避す
る場合もある。奪い合いや争いが当事者双方の利益を消失させ、消耗させる
とわかった場合、つまり互いが自身の自然権を行使する事がかえって、自身
の生存に対して不利益になるとわかった場合には、自然権の行使をやめ、次
のような自然法に従い、共存を選択する。

その自然法とは「あなたに対してなされるのを欲しないことを、他人に対し
てしてはならない」あるいは「他人が自分に対してしてくれるように、あな
たがともめるすべてのことを、あなたが他人に対しておこなえ」という教え
である。

(ここには1つの逆説的な認識がある。それは、自己保存のためにはかえっ
 て自然権の行使を抑制した方が有利だという認識。全面的な自然権の行使
 が自己保存にとって不利益となる逆説。)

「自然状態」において、先の自然法が人々の間で貫徹されるのなら、そこに
は平和が約束されるだろう。しかしながら誰が自然法を尊重し、誰が無視す
するかは、出会うたびに互いに確認し合わなければわからないのが「自然状
態」という状況だ。「国家状態」=「社会状態」でなら互いが守る法=ルール
が前提としてあり、人々が出会うたびに法の尊守を確認し合う必要はない。

そこでホッブズは、人々が各人の自然権を譲渡し、その力(権力)で秩序を
創造する主権者を想定する。その主権者によって創造された秩序こそが、国
家(StateあるいはCommon-wealth)でありリヴィアサンである。
ラベル:自然状態
posted by 浅谷龍彦 at 23:39| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

自然状態(2)

ホッブズはまず、人について、その総合的な能力において平等だとする。

 《人びとは生まれながら平等である》
 自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程
 度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神の
 うごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるとしても、すべてをいっ
 しょにして考えれば、人と人とのちがいは、ある人がそのちがいにもとづ
 いて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張でき
 るほど顕著なものではない、というほどなのである。」
 [『リヴァイアサン』第13章(P207)岩波:水田訳]

そしてその能力の平等から闘争が起こるという。

 《平等から不信が生じる》
 能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の
 平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、
 それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとす
 ると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主とし
 てかれら自身の保存 conservation であり、ときにはかれらの歓楽
delectation だけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか
屈服させるかしようと努力する。」
 [『リヴァイアサン』第13章(P208)岩波:水田訳]

ホッブズにとっては、人々が主張し合うほど、各人に総合的な能力の違いは
見出せない。すると誰もが似たようなものを望みがちになる。人々が互いに
似たような望みを抱き、各人が同じものを求める場合、しかも全員がその望
みが叶えられそうにない場合、そこには争いが起こりうる。

争いが起きた場合、まだ人々を威圧し、規制/抑制する権力も権威も存在し
なければ、互いの持つ能力によってその争いは解決されなければならない。
ところが、人々の能力には大きな差はなく、一時的にはある一方が他方を屈
服させえたとしても、次の機会には報復されたり、あるいは痛み分けで状況
が決着しない状態が続くといったいろいろな混乱が想像される。もちろん互
いに譲り合い争いを避ける事も大いにありえる。だが、いずれにしても最終
的に紛争を解決しうるような「力」はそこには存在しない。その状況をホッ
ブズはこう要約する。

 《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
 これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
 共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
 にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
 ある。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、
 戦闘によってあらそうという意志が十分に知られている一連の時間にある。
 [『リヴァイアサン』第13章(P210)岩波:水田訳]

このような状態をホッブズは「自然状態」と呼ぶ。そしてその「自然状態」
において人々は自然権を持ち、自然法に従うとされる。自然権とは「各人が、
かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志
するとおりに、かれ自身の力を使用すること」であり、自然法とは「理性に
よって発見された戒律すなわち一般法則であって、それによって人は、かれ
の生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去する
ようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しう
るとかれが考えることを、回避するのを禁じられる」禁忌である。
posted by 浅谷龍彦 at 17:30| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月31日

自然状態(1)

ホッブズが生きた16、17世紀のヨーロッパでは、国家は絶対
王政と呼ばれる中央集権的な体制をとっており、国王の支配と
王権を正当化するイデオロギーとして王権神授説が唱えられて
いた。「王が、神の地上での代理人として国を支配する王権を
神から授かった。」と主張するのが王権神授説だ。
この王権神授説に対して、ホッブズは国家支配の正当性、根拠
と権威を人から導き出そうと試みる。それが彼の主著『リヴィ
アサン』である。

『リヴィアサン』は、人間の分析から始まり、国家(コモン−
ウェルス)、キリスト教的国家、暗黒王国の分析へと進む。
前半は、人の本性と人による国家生成を分析する、後に社会契
約説と呼ばれる国家論であり、後半は、神からの力を主張する
王権神授説による国家論と、国家とは別に存在するもうひとつ
の権力である教会の支配を分析、批判する構成となっている。

ホッブズは『リヴィアサン』で、権力が人に由来するとは何か、
あるいは神に由来する権力とは何かを考える。そこでまず国家
の生成を人の本性から導き出すために「自然状態」という国家
以前の人々の状態を想定する。
ラベル:自然状態
posted by 浅谷龍彦 at 23:34| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする