それは何によるものなのだろう?
僕の考えでは、論の出発点に置かれた「自己保存」という法則の確実性が「自然状
態」の話にその説得力を供給している。およそ生物ならばその行動の目的は、自身
の生命を維持する事であるというのがその認識であり、生物の行動の基本原理とさ
れるものだ。この点についてはスピノザからルソーまで当然の様に無批判で受け入
れていて、それぞれの論を進める上でも当然の前提として語られている。
ホッブスの国家論はここから演鐸される。まず「自己保存」の為に行動する権利と
して「自然権」が導き出される。がしかし、個々の「自然権」は互いに衝突し合い、
「各人の各人に対する戦争」状態に陥る事になる。このため、この様な状態になる
と人間の理性が次の様な「法」をもたらすとされる。
「他人が自分に対してしてくれるように、あなたがともめるすべてのことを、
あなたが他人に対しておこなえ」(聖書)
「あなたに対してなされるのを欲しないことを、他人に対してしてはならない」
(ローマ法)
「自分の望まないことは人にしむけないこと」(論語)
これが「自然法」だ。
ロック、モンテスキュー、ルソーはホッブスの「自然状態」論を批判して、「自然
状態」は戦争ではなく平和だったとしているが、その彼らも平和な「自然状態」の
後にはホッブスの「自然状態」と同様の闘争が起こるとしており、ロックとルソー
はそれを「戦争状態」と呼んでいる。どっちにしても調停すべき闘争が起きなけれ
ば「国家」の必要性が語れない訳で、其の点で大差はないように思える。
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