二人の人間が、それぞれ違う食べ物を持って出会ったとする。
この二人はどうするだろうか?
1.互いに干渉せず別れ、それぞれの食べ物をそれぞれ食べる。(自給型)
2.互いに互いの食べ物を全部手に入れようとして戦う。(略奪型)
3.互いの食べ物の一部を交換して相手の食べ物を手に入れる。(交換型)
まあ、どの行動も有り得るだろう。
しかし結果的にどの行動をとるにしても、この二人の頭の中には次にどう
すか、この3つの行動を含むあらゆる行動が浮かび、そのどれを選択する
か瞬時に判断が行なわれる事になるはずだ。
まず二人が互いの持つ食べ物を見た瞬間、相手が持つ食べ物を”欲しい”
と感じるのが自然ではないだろうか。それでその次には、どうやって手に
入れるかを考えるだろう。で、どうやって?もちろん力尽くで。(笑)
しかし実力行使というのは実際、労力つまり体力を使うコストの掛かる手
段で、使わなくて済めば使わないに越した事はない。なので大抵最初は威
嚇し、脅す。脅して相手が諦めてくれれば、無駄な労力を使わず楽に食べ
物を増やせて理想的な結果が得られるからだ。だが相手が脅しに屈してく
れなければコストを掛けて、体力を使って奪う事になる。
じゃあ、奪うのを諦めたらどうだろう、もう相手の持つ食べ物は手には入
らないだろうか?いや互いの食べ物を交換するという手もある。もちろん
交換も上手く行くとは限らないし、交換が成立しても持っている食べ物の
総量が増える訳ではないが、2つの食べ物を持つ事にはなる。交換では大
満足とはいかないかもしれないが、二人ともそこそこの満足は得られるだ
ろう。
と、ここまで書いて来たのは交換が略奪を諦めることによって見出される
コミュニケイションの形態ではないか?と思ったからだ。
交換とは略奪の諦めの形態ではないのかと。
交換の社会的、歴史的意義を最初に見出したのはアダム・スミスだと思う
が、彼は交換と暴力(略奪)の関係をどう考えていたのだろうか?
人が初めの初めから交換を考える事はないのではないだろうか?
人の物が”欲しい”と感じる時、それは同時に人から物を”奪いたい”と
言う事を意味するのではないか?
そして奪う事を諦めた時、交換と言う選択肢が選ばれうるのではないだろ
うかね?
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