2007年10月09日

109個目の煩悩?

除夜の鐘は108回、煩悩の鳴らされるそうだが、その108つの中に「煩悩を
捨てたい」と言う煩悩が入っているかどうか、僕は知らない。もし入ってな
ければ「煩悩を捨てたい」と言う煩悩は109個目の煩悩になるのかな?「煩
悩を捨てたい」というのもまた1つの「欲」なのだから。
それから他人の幸福を優先するという「利他主義」があるが、これも他人の
幸福が巡り巡って自分の幸福に繋がるという意味では「利己主義」だし、人
はなにかに追い詰められ強制されない限り、自分になにかしらの「利」がな
ければ行動を起こすモチベーションが生まれないのではないだろうか?と考
えると、究極的には「利己主義」的でない「利他主義」はないんじゃないだ
ろうかと思う。誰かが喜ぶことが自分の喜びになるという感じで。

この前テレビで、日米で「自分は宗教的な人間か?」というアンケートをし
たらアメリカで85%、日本で20%か15%の人がYes.と答えたらしい。でも
日本人の多くは意識していないだけで、実際はかなり宗教的なのではないだ
ろうか?
神様(神なるもの/聖なるもの)に何かを願うこと祈ること、これがたぶん
宗教の基本であり本質だ。だとすると受験の合格祈願などはその最たるもの
ということになるだろう。これをしたことのない日本人はほとんどいないん
じゃないかと思う。ただ日常的には宗教的な戒律を意識せずに生活できるの
で、自覚しないで済ませられるわけだが。またこの宗教意識の希薄さはある
程度多神教に共通するのかもしれない。たとえば古代ギリシアも多神教だが、
今も残る多くの記録、著作物からあまり宗教色は感じない気がする。

さきに宗教の基本は「願掛け」といったが、当然「願掛け」してもいつも神
様が答えてくれるはずもなく、そうするとその神への不信仰が出て来る。そ
こで世界宗教になるとこれを反転して、神になにかお願いするんじゃなく、
神からの教えを忠実に生きる事、神からの戒め(願い)を受け入れ実践する
ことが大切なんだとなってくるのだと思う。そして神様からの贈り物として
ユダヤ教ならば十戒、キリスト教ならば福音書。イスラム教ならコーランが
贈られる。仏教の場合は、なにかを願うこと「願掛け」が「苦」の原因なの
だから「願掛け」を止めることが逆に苦痛を無くす道なんだと逆転する。
また仏教には諸行無常という考えがあるが、諸行無常が、全てのものは永遠
ではない、「永遠なもの」などないという意味だとすると、では諸行無常と
いう概念自体は「永遠なもの」、永遠の真理、法則となってしまうのではな
いだろうか?とふと思う、今日この頃。
posted by 浅谷龍彦 at 00:51| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 解体(心象) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
109個目の煩悩があるのかどうか調べてみたら、トップでヒットして来ました。
はじめまして。

除夜の鐘を聞いて、煩悩がなくなるどころか、年々増えていっている気がしてなりません。
失礼しました。では
Posted by しくみ at 2008年12月15日 21:58
しくみさん、はじめまして。
今年ももう少しで除夜の鐘ですね。
今年は世界中の煩悩が100年ぶりに収縮しているかもしれません。
あれ?逆に増えるんかな?

そういえば、子煩悩っていう煩悩もありますね。(笑)
Posted by 浅谷龍彦 at 2008年12月16日 00:27
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