2007年09月24日

行政の集権と生産性?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第5章(P144-P145)で
 『中央権力というものは、どんなに開明的で賢明におもわれようとも、
  それだけで大きな国の人民の生活をあらゆる細部まで配慮しうるもの
  ではない。(中略)
  たしかに、集権制は人間の外的行為をたやすくある特定の画一的形式
  に従わせることができ、人はやがてそれによって処理される個々の事
  柄とは別に、画一性それ自体を愛するようになる。(中略)集権制は
  日常の事務に規則的な足取りを与え、社会秩序の細部を巧みに管理し、
  軽い混乱を鎮め、小さな犯罪を罰することには容易に成功する。それ
  自体では頽廃でも繁栄でもない現状のままに社会を保持すること、行
  政官がよき秩序とか公共の静謐と呼び慣わしている一種の行政の半睡
  状態を社会全体の中で保つこと、このようなことに集権制は成功する。
  一言でいえば、それが長じているのは何かを妨げることであって、何
  かをなすことではない。社会を深部から揺るがし、急激な動きをこれ
  に与えなければならぬときには、集権制はなんの力にもならない。少
  しでも個人の協力を仰ぐ必要のある措置をとる場合には、集権制の巨
  大組織は驚くほど無力である。突如としてそれは無能をさらけだす。
  そこで時として、集権制の側が窮余の一策として、市民の協賛を得よ
  うとすることがある。だがその際、権力は次のように語る。諸君は私
  の望むとおりに、私の欲する限りにおいて、またまさしく私の欲する
  方向に動いてほしい。諸君は全体を導こうなどと思わず、細部を担当
  してほしい。闇の中で作業し、私の仕事は後で結果によって判断して
  ほしい、とこう言うのである。このような条件の下では、人間の意志
  に基づく協力は決して得られない。そのためには自由に動き、行為に
  責任をとることが必要である。人間は独立性を失って、自分の知らぬ
  目的地に向かって歩くくらいなら、じっとうごかないでいる方を選ぶ
  ようにできている。』
と書いとります。

集権制には人民を奴隷に近付けて行くような方向性、指向性があるってこ
とやね。つまり人民を非生産的にしていく。それに対して分権制あるいは
自治制は、人民を、利益を追求する労働者のように積極的にさせ、自分の
利益のように地域の利益を考える志向を促すってことかな?
それにこれは国家の権力構成の話だけど、企業にも当て嵌まる話でしょ。
多くの人には国家の話としてよりも企業内のこととしての方がピンと来る
んじゃないのかな?
バンドを含めたあらゆる組織体にもね。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 20:27| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
でも、大企業や大国の方が強いような気がするのはなぜだろう??
Posted by asawa at 2007年09月27日 00:42
逆に言った方がいいかもしれませんね。
分権、分立、分割しても案外弱くはならないんだと。
別に心を一つにしなくたって勝てるんだと。
中央集権が強い組織体って心を一つにするのが好きそうじゃないっすか?(笑)
Posted by 浅谷龍彦 at 2007年09月27日 23:30
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