2007年09月16日

政治の集権と行政の集権?

トクヴィルは『アメリカのデモクラシー』の第1部第5章(P137-P139)で
 『集権制は今日、人が繰り返し口にする言葉だが、一般に誰もその意味
  を厳密に定義しようとはしない。ところが、集権制には二種類あって、
  両者が大いに異なることを知るのは重要である。
  全国法の制定や自国民と外国人との関係のように、ある種の利害は国
  のあらゆる部分に共通に関わる。たとえば自治体の事業のように、国
  のある一部にだけ特に関わる別の利害もある。第一の種類の問題を処
  理する権限を同じ場所、同じ人の手に集中すること、これば政治の集
  権と私が呼ぶものをうちたてることである。同様にして第二の種類の
  問題を処理する権限を集中するのは、私が行政の集権と名づけるもの
  をうちたてることである。二つの集権が交わる点もある。だが、それ
  ぞれの分野にだけ属する事象を全体として見れば、両者は容易に区別
  される。(中略)
  現代において、われわれは政治の集権が極度に進んだ強国として、イ
  ギリスを知っている。この国では国家はあたかも単一の人間のように
  振舞い、膨大な大衆を思うままに動員し、国家の実力を結集してどん
  なところでも望みのままに力を及ぼす。この五〇年の間にこれほど偉
  大な事業をなしたイギリスに、行政の集権は存在しない。私としては、
  強力な政治の集権なくして国家が生存しうるとは思えないし、まして
  繁栄できるとは考えられない。
  だが、行政の集権は、これに服する国民を無気力にするだけだと思う。
  なぜなら、行政の集権には国民の公共精神を絶えず減退させる傾向が
  あると考えるからである。たしかに、行政の集権はあるとき、ある特
  定の場所に、国の活用しうる全力を結集することには成功する。だが
  この力を再生産するには有害である。行政の集権は戦いの日には国を
  勝利に導くが、長い間には国力を弱める。一人の人間の一時的栄光に
  大いに与ることはあっても、一国の人民の持続的繁栄には貢献しえな
  い。注意しなければならないのは、集権制なしに国家は行動しえない
  と言うとき、意識せずとも、それはほとんどつねに政治の集権につい
  て言っているのだということである。』
と書いとります。

政治の集権と行政の集権という話は興味深い。が、ちとわかりずらい。
確かにアメリカは、イギリスの植民地である13の州が独立してできた国で、
先に州があり、その13州が連合したのが合衆国。国が後。
イギリスは、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルラン
ドの非独立国や地域の連合国。
両国とも州や地域の自治性が高いのは間違いないだろうが。。。
ラベル:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 21:05| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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