先日、妻の四十九日になりました。法要は少し早くに執り行いました。そしてだんだん妻がいない寂しさを感じるようになって来ました。これはこの前まで感じていた妻がいない事への違和感が薄れ、妻の不在を実感するようになったと同時にその不在を体と脳が受け入れ始めたのだと思います。
妻の写真や妻に纏わる物や場所に接すると複雑な気持ちが沸き起こります。悲しさ、寂しさ、懐かしさ、後悔、自負。自分には妻に出来る事は出来るだけしてやったという自負があります。でも同時に、もっとやれたんじゃないか?他にもやれる事があったんじゃないか?との考えが頭を過ぎります。どうしてでしょうか?
ここには一つの錯覚というか、判断条件の決定的な違いが潜んでいる事を忘れがちです。まだ先のわからない複数の可能性がある状況での判断と、ある結果が出た後から同じ状況を振り返るのとは考える条件が決定的に違うという事を。進行中の状況では考えうる可能性を考慮して行動を選択します。そのため結果後から振り返ると中途半端だったり、時には無駄だったりする事をしていたりします。
では逆に、後から振り返るとどうして進行時と違うように見えるのか?それは結果を起点にして結果から過去を再構成して考えてしまうからです。結果から過去を見ると結果に向かって一本の道筋があったかのように見えます。と言うよりも人の思考習性として状況を整理して一つのストーリーを作ってしまいがちです。あたかも一つの道が始めからあったかのように。でもそれは実際とは違います。実際にはあり得たはずの別の可能性も考えながら判断し行動して来たはずです。そこには起こらなかったいくつもの可能性があったはずです。
とは言っても振り返って後悔してしまいます。それはやはりまだ結果を受け入れたくないからかもしれません。
妻がいる間は、妻だけでなく、平日には毎日朝昼夕とヘルパーさんが来てくれ、さらに看護師さん、訪問医さん、理学療法士さん、訪問歯科医さんなどが入れ替わり立ち替わり来てくれていました。それはそれで大変でしたが、同時に賑やかで楽しく来てくれた人と触れ合う時間でもありました。ところが妻がいなくなった途端、誰も来てくれる人がいなくなり、静かな自宅に1人ぽつんといる事になったわけです。
新型コロナウィルスの流行以来、仕事がほとんど自宅でテレワークになったので妻に付き添えたのは良かったのですが、今は黙々と仕事するだけで、寂しいです。