『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P172)で
『地上のあらゆる利害関心よりも来世の方が重要であるばかりか、む
しろさまざまな点で一層確実とさえ考えられていた時代において、
そうした教説(予定説)を人々はどんなにして堪え忍んでいったの
だろうか。かならずや信徒の一人びとりの胸には、私はいったい選
ばれているのか、私はどうしたらこの選びの確信がえられるのか、
というような疑問がすぐさま生じてきて、他の一切の利害関心を背
後に押しやってしまったにちがいない。』
とし、第2章(P178-P179)で
『こうした困難に対処するため、さまざまな方法がとられた。(中略)
その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、
すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、そうしたことを無条件に
義務づけることだった。自己確信のないことは信仰の不足の結果で
あり、したがって恩恵の働きの不足に由来すると見られるからだ。
このように、己れの召命に「堅く立て」との使徒の勧めが、ここで
は、日ごとの闘いによって自己の選びと義認の主観的確信を獲得す
る義務の意味に解されている。(中略)
いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法
として、絶えまない職業労働をきびしく教えこむということだった。
つまり、職業労働によって、むしろ職業労働によってのみ宗教上の
疑惑は追放され、救われているとの確信が与えられる、というのだ。』
と書いとります。
余計な事考えずに働けっちゅうことやね。
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