2007年05月14日

神の栄光?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P165-P166)で
 『現世にとって定められたことは、神の自己栄化に役立つということ
  −しかもただそれだけ−であり、選ばれたキリスト者が生存してい
  るのは、それぞれの持ち場にあって神の戒めを実行し、それによっ
  て現世において神の栄光を増すためであり−しかも、ただそのため
  だけなのだ。ところで、神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会
  的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の戒めに
  適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うか
  らなのだ。カルバン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、
  ひたすら》in majorem gloriam Dei《「神の栄光を増すため」の
  ものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職
  業労働もまたこのような性格をもつことになる。』
と書いとります。

また第2章(P169)で
 『神は現世の形づくられたもの、だからまた社会的秩序の中において、
  事象的かつ合目的的なものを、必ずみずからの栄化の手段として欲
  したまう。それは被造物自体のためではなしに、被造物界の秩序を
  みずからの意志に従わせんがためだ。そういった思想が、カルバン
  派信徒たちに霊感をあたえた。だから、選びの教説によって解き放
  たれた聖徒たちの行為への起動力は、ひたすら現世の合理化への努
  力となってほとばしり出た。』
と書いとります。

人のための合理主義じゃなくて神のための合理主義?
タグ:FREEDOM 自由
posted by 浅谷龍彦 at 20:52| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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