『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P165-P166)で
『現世にとって定められたことは、神の自己栄化に役立つということ
−しかもただそれだけ−であり、選ばれたキリスト者が生存してい
るのは、それぞれの持ち場にあって神の戒めを実行し、それによっ
て現世において神の栄光を増すためであり−しかも、ただそのため
だけなのだ。ところで、神がキリスト者に欲し給うのは彼らの社会
的な仕事である。それは、神は人間生活の社会的構成が彼の戒めに
適い、その目的に合致するように編制されていることを欲し給うか
らなのだ。カルバン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、
ひたすら》in majorem gloriam Dei《「神の栄光を増すため」の
ものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職
業労働もまたこのような性格をもつことになる。』
と書いとります。
また第2章(P169)で
『神は現世の形づくられたもの、だからまた社会的秩序の中において、
事象的かつ合目的的なものを、必ずみずからの栄化の手段として欲
したまう。それは被造物自体のためではなしに、被造物界の秩序を
みずからの意志に従わせんがためだ。そういった思想が、カルバン
派信徒たちに霊感をあたえた。だから、選びの教説によって解き放
たれた聖徒たちの行為への起動力は、ひたすら現世の合理化への努
力となってほとばしり出た。』
と書いとります。
人のための合理主義じゃなくて神のための合理主義?
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