2007年05月02日

予定説?

マックス・ヴェーバーは
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章(P152-P154)で
 『カルバンにおいては、この》decretum horribile《「恐るべき[神
  の]決断」の教理はルターのように体験によってあたえられたので
  はなく、思索によってあたえられたのであり、したがって神のみを
  思い人間を思わない彼の宗教的関心が思想的に徹底されていくたび
  に、その重要性もますます大きいものとなっていった。人間のため
  に神があるのではなく、神のために人間が存在するのであって、あ
  らゆる出来事は−したがって、人々のうちの小部分だけが救いの至
  福召されている、というカルバンにとって疑問の余地のない事実も
  また−ひたすらいと高き神の自己栄化の手段として意味をもつにす
  ぎない。地上の「正義」という尺度をもって神の至高の導きを推し
  量ろうとすることは無意味であることともに、神の至高性を侵すこ
  とになる。(中略)
  われわれが知りうるのは、人間の一部が救われ、残余のものは永遠
  に滅亡の状態に止まるということだけだ。人間の功績あるいは罪過
  がこの運命の決定にあずかると考えるのは、永遠の昔から定まって
  いる神の絶対に自由な決意を人間の干渉によって動かしうると見な
  すことで、あり得べからざる思想なのだ。新約聖書では、一枚の銀
  貨を見つけた女のように罪人の帰還をよろこび給う、人間的に理解
  しやすい「天の父」である神が、ここでは、永遠の昔から究めがた
  い決断によって各人の運命を決定し、宇宙のもっとも微細なものに
  いたるまですでにその処理を終え給うた、人間の理解を絶する超越
  的存在となってしまっている。神の決断は絶対不変であるがゆえに、
  その恩恵はこれを神からうけた者には喪失不可能であるとともに、
  これを拒絶された者にもまた獲得不可能なのだ。』
と書いとります。

なにをしようが結果は同じってことやね。
タグ:自由 FREEDOM
posted by 浅谷龍彦 at 00:45| 千葉 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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