2013年10月29日

自然状態(10)

この後ヒュームは、「原始契約ないしは人民の同意というこの原理に対して、
もっと本格的な、少なくともより哲学的な反論」をするというのだが、そこ
で語られるのは独自の道徳的義務と、その「道徳的義務」から導かれる彼自
身の“社会契約説”とも言える論理である。ただし「契約」が「服従」に変
えられてはいるが。

曰く、「道徳的義務」には二種類、自然本能的なものである愛情や感謝の念
や同情と、正義や誠実さへの反省的な義務意識とがある。そして…

 もしもわれわれを導くものが原初的な本能だけであるとすれば、われわれ
 は放埓な自由にふけったり、他人を支配することを望んだりするのが落ち
 だろう。したがって、こういう根強い欲望を犠牲にしてまで、平和と社会
 秩序とのために尽くすようわれわれを仕向けるものがあるとすれば、それ
 は反省以外にない。実際、ほんの僅かばかりの経験と観察からだけでも、
 社会は統治者の権威なしにはおそらく維持されえないだろうこと、さらに
 またこの権威も、もしもそれに対して厳格な服従が捧げられないならば、
 たちまち地に落ちてしまうに違いないだろうことは、十分理解されること
 である。
 [『世界の名著 27』「原始契約について(P551)中央公論:大槻編]

この引用の最初でヒュームは自身の「自然状態」観を語っているが、その認
識にホッブズとの違いはなく、続けて出て来る「反省」も、ホッブズが理性
から導き出されるという「自然法」のようだ。そしてヒュームは社会維持の
ためには統治者が必要で、尚且つ統治者への人々の「服従」が必要不可欠で
ある事を強調するのだが、この「服従」とは果たして「契約」ではないのだ
ろうか。「契約」が適当でないとしても、「服従」の中に「黙認」という
「同意」が含まれてはいないだろうか。

実はヒューム自身その事に気付いており、この後も「契約」と「服従」を巡っ
て議論を続けるのだが、最後まで「契約」を否定しきる事が出来ずに終わる。

人々が被支配を内面化し、強制ではなく積極的、肯定的に支配を受け入れる
論理を説こうとするには、何かしかの「契約」あるいは二者間の「合意」を
想定するしかない事がヒュームの苦闘からも見て取れる。

結局ヒュームは「原始契約について」では社会契約説を否定しきれず、
「自然状態」については、ホッブズとさほど認識に違いはないであろう事が
窺えた。だとすれば直接言及は見当たらなかったが、自己保存についてもそ
れ程認識に隔たりはないだろうと推察される。
posted by 浅谷龍彦 at 16:02| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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