2012年05月03日

自然状態(2)

ホッブズはまず、人について、その総合的な能力において平等だとする。

 《人びとは生まれながら平等である》
 自然は人びとを、心身の諸能力において平等につくったのであり、その程
 度は、ある人が他の人よりも肉体においてあきらかにつよいとか、精神の
 うごきがはやいとかいうことが、ときどきみられるとしても、すべてをいっ
 しょにして考えれば、人と人とのちがいは、ある人がそのちがいにもとづ
 いて、他人がかれと同様には主張してはならないような便益を、主張でき
 るほど顕著なものではない、というほどなのである。」
 [『リヴァイアサン』第13章(P207)岩波:水田訳]

そしてその能力の平等から闘争が起こるという。

 《平等から不信が生じる》
 能力のこの平等から、われわれの目的を達成することについての、希望の
 平等が生じる。したがって、もしだれかふたりが同一のものごとを意欲し、
 それにもかかわらず、ふたりがともにそれを享受することができないとす
 ると、かれらはたがいに敵となる。そして、かれらの目的(それは主とし
 てかれら自身の保存 conservation であり、ときにはかれらの歓楽
delectation だけである)への途上において、たがいに相手をほろぼすか
屈服させるかしようと努力する。」
 [『リヴァイアサン』第13章(P208)岩波:水田訳]

ホッブズにとっては、人々が主張し合うほど、各人に総合的な能力の違いは
見出せない。すると誰もが似たようなものを望みがちになる。人々が互いに
似たような望みを抱き、各人が同じものを求める場合、しかも全員がその望
みが叶えられそうにない場合、そこには争いが起こりうる。

争いが起きた場合、まだ人々を威圧し、規制/抑制する権力も権威も存在し
なければ、互いの持つ能力によってその争いは解決されなければならない。
ところが、人々の能力には大きな差はなく、一時的にはある一方が他方を屈
服させえたとしても、次の機会には報復されたり、あるいは痛み分けで状況
が決着しない状態が続くといったいろいろな混乱が想像される。もちろん互
いに譲り合い争いを避ける事も大いにありえる。だが、いずれにしても最終
的に紛争を解決しうるような「力」はそこには存在しない。その状況をホッ
ブズはこう要約する。

 《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
 これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
 共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
 にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
 ある。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、
 戦闘によってあらそうという意志が十分に知られている一連の時間にある。
 [『リヴァイアサン』第13章(P210)岩波:水田訳]

このような状態をホッブズは「自然状態」と呼ぶ。そしてその「自然状態」
において人々は自然権を持ち、自然法に従うとされる。自然権とは「各人が、
かれ自身の自然すなわちかれ自身の生命を維持するために、かれ自身の意志
するとおりに、かれ自身の力を使用すること」であり、自然法とは「理性に
よって発見された戒律すなわち一般法則であって、それによって人は、かれ
の生命にとって破壊的であること、あるいはそれを維持する手段を除去する
ようなことを、おこなうのを禁じられ、また、それをもっともよく維持しう
るとかれが考えることを、回避するのを禁じられる」禁忌である。
posted by 浅谷龍彦 at 17:30| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | State of Nature | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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