2010年09月27日

必要(2)?

当然ながら人は、今あるもので自身の生活様式を形作る。今ありもしないものを
当てにして生活などできはしない。しかし人は、自分に「必要」なものを本当に
知っているだろうか?

自分に何かが足りないかという欠如は分かるだろう。例えば、喉が渇いたとか。
だが喉が渇いたからといって、水ならどんな水でも飲んでいいという訳じゃない。
どこのどんな水を飲めばいいのか、それは既に知っている周りの人が教えてくれ
て初めて分かる。(大概は家族が教えてくれる)
これに対して、何かが足りないという「欠如」。これは自分の脳から信号が来る
ので赤ちゃんでも分かる。赤ちゃんも喉が乾いたら泣いて、なにか喉の乾きを潤
すものを求める。だがその時赤ちゃんは自身の喉の乾きを潤すものを、あれこれ
と指定はしない。

つまり、人は自分になにかが足りていない事については知り得るが、ではその欠
如に対して「必要」なものは何かという事については、誰かに教えられるか、自
身で何度も試してみた後でしか分らない。はじめから分かる訳ではない。
従って、ここでも「必要」は後からやって来るといえる。
人は自身の「必要」を誰か教えられるか、自身で学習した後に知る。

だから、どこかの発明家/開発者が作った発明品/新製品がそのまますぐに人々
に「必要」とされるのは稀である。まず発明品/新製品の効能を宣伝して、人々
に「必要」だとアピールしなければならない。そして使ってもらい、その「必要」
性に気付いてもらわなくてはならない。
人はその発明品/新製品を使うまで、その製品がもたらす効能を自身が「必要」
とする事には気付いていない。人はその製品を使う事を通して自身の「必要」を
発見する。

人はなにか新しいいいものを手にした後で、こう言わないだろうか?
「私が欲しかったのは、これだ!」と。
その時にやっと人は、自身の「必要」を目の当たりにする。
posted by 浅谷龍彦 at 01:21| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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