2010年05月31日

計算の時代 (3)?

フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第10節、P108で
 『ガリレイは、幾何学と、感性的な現れ方をし、かつ数学化されうるものか
  ら出発して世界へ眼を向けることによって、人格的生活を営む人格として
  の主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によっ
  て事物に生じてくる文化的な諸性質を、すべて捨象する。このような捨象
  の結果、純粋な物体的事物が残り、それが具体的実在として受けとられ、
  その全体が一つの世界として主題化される。ガリレイの手ではじめて、そ
  れ自体において実在的に完結した物体界としての自然という理念が現れて
  くる、ということができるであろう。(中略)
  明らかにそれとともに、二元論もまた準備されたのであるが、それがまも
  なく、デカルトのもとで姿を現してくる。』
と言う。

つまりガリレオによって、今、人が言う客観的な外部世界が見出され、その後、
今度はデカルトによって「コギト」としての主観が見出され、客観/主観の二
元論が現れてくる。

そしてそれに対して、フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
の第9節、P89で次のように指摘する。
 『ガリレオのもとで、数学的な基底を与えられた理念体の世界が、われわれ
  の日常的な生活世界に、すなわちそれだけがただ一つ現実的な世界であり、
  現実の知覚によって与えられ、そのつど経験され、また経験されうる世界
  であるところの生活世界に、すりかえられていたということは、きわめて
  重要なこととして注意されねばならない。』
と。


そして続けて、P94では、
 『「数学と数学的自然科学」という理念の衣―あるいはその代わりに、記号
  の衣、記号的、数学的理論の衣と言ってもよいが―は、科学者と教養人に
  とっては、「客観的に現実的で真の」自然として、生活世界の代理をし、
  それを蔽い隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣
  は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。』
としている。

人はいつからか、自分で感じた事よりも知った事を優先させるようになった。
しかも数学的な整合性、辻褄が合っているからというだけで。

柄谷行人は「ブタに生まれかわる話」というエッセイで次のように言っている。
 『ソ連の人工衛星スプートニクがはじめてうちあげられた次の日、湯川秀樹
  は教室で、「これで万有引力の法則が証明されたね」といったそうである。
  人工衛星の出現に理論的にはすこしも驚かなかった研究者・学生も、この
  発言にはさぞかし驚いただろう。その話を読んで、私自身今さらながら驚
  いたのは、その時まで万有引力の法則が証明されたわけではなかったとい
  う事実である。』

ニュートンが万有引力の法則を発表したのが1687年。スプートニクが打ち上
げられたのは1957年。その間、万有引力の法則も単なる”数学的な仮説”に
過ぎなかった訳である。

しかし更にいえば「数学と数学的自然科学」は、それがどんなに世界に妥当性
を持っていようとも、それ自体は「真理」でもなければ現実的な事物でもなく、
やはり単なる”数学的な仮説”なのである。
それを「真理」や「現実」に擦り替えるのは、科学者の「真理を見つけたとい
う信仰である。」(ニーチェ)
posted by 浅谷龍彦 at 23:56| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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