2010年02月24日

Dead end?

ニーチェやマルクス、ウィトゲンシュタインなどの思考を利用して出来ている
柄谷行人の認識は確かにラディカルだ。だが同時にその認識は、そのまま日常
に持ち込むのは無理な代物でもある。ただ認識として考えるだけなら無理は無
いが、それを行動に移そうとしたら大変な事になるだろう。

例えば柄谷がいう、「他者とのコミュニケーション」を実践しようとしたら、
それだけで途方も無い時間と労力が必要になる。柄谷自身が例に挙げているが、
「他者とのコミュニケーション」が、まだ言葉を覚えていない子供や、言葉の
通じない外国人との対話のように、共通理解の前提が無い者との対話こそを
「対話」だとするものならば、それは、発話のその都度、言葉の内容を互いに
確認、理解し合いながら会話し、それを繰り返し続けると言ったものになり、
たぶん会話は最初の一言を巡ってそこから先に進めないままとなるだろう。
そんな事を日常の中で実践したらどうなる?

その認識がラディカルであっても、
いやラディカルであるがゆえに
すぐ日常に持ち込むには無理がある。
そう、だからそれは正しくても使えない。
いや、正しいから使えない。

ニーチェが指摘するように、言葉と言葉の上に作られる概念、論理学、数学な
どのおよそ人間の思考制度全般は、その真実性というよりもただ有用性によっ
て成立している。しかしながらそのニーチェにしても、その思考を言葉によっ
て動かしているのであって、そもそも言葉が無ければ、ニーチェも何も指摘で
きはしない。
さらにその認識を実社会に適用し、その認識に基づいて人々が行動しようとす
れば、それは物凄く不便で、我慢できない代物になる。何しろそれは言葉、概
念、論理学、数学などの有用性を排除するような指向を持つ思考なのだから。

つまりそのままでは使えない。

ここで行き止まり。
posted by 浅谷龍彦 at 23:08| 千葉 | Comment(2) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とはいえ、社会は動いている。

多分、言葉のコミュニケーション以上に、イメージや、図や、スローガン、あるいは人の魅力のコミュニケーションで動いている。
Posted by あさわ at 2010年03月21日 23:41
柄谷行人も気付いて、探究Vから、
何とか自分の議論と実際の運動を繋げようとして
トランスクリティーク→NAMまで行ったんでしょうけど。。。
Posted by 浅谷龍彦 at 2010年03月23日 01:52
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。