2009年09月07日

単独性?

ある場所に多くの人がいたとしても、その人達を一人、二人と数えてはいけない。
そもそも”人間”という概念(集合)が成り立たないのだから。

柄谷行人は『探究2』のP9-P10で
 『私は十代に哲学的な書物を読みはじめたころから、いつもそこに「この私」が
  抜けていると感じてきた。哲学的言説においては、きまって「私」一般を論じ
  ている。それを主観といっても実存といっても人間存在といっても同じことだ。
  それらは万人にあてはまるものにすぎない。「この私」はそこから抜け落ちて
  いる。(中略)
  といっても、私がこだわってきたのは、「私」のことではない。また、「この
  私」が特殊であるといいたのではない。私はすこしも特殊ではない。私は自分
  がいかにありふれているかを知っている。それにもかかわらず「この私」は他
  のだれでもないと感じている。肝心なのは、「この私」の「この」の方であっ
  て、私という意識のことではない。(中略)
  私はここで、「この私」や「この犬」の「この」性 this-ness を単独性
  singularity と呼び、それを特殊性 particularity から区別することにする。
  単独性は、あとでいうように、たんに一つしかないということではない。単独
  性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に
  所属しようのない個体性である。』
という。

ここで柄谷は、「私」を一般性(集合)の中の特殊性(要素)と見るような視点と
は別な視点を語っている。「私」を特殊性/一般性の枠の中で扱わないとすれば、
つまりは、数学や論理学の対象として扱わないのであれば、「私」は取り替えの効
かない、比較不能な、還元されえないものとなる。なぜなら一般性(集合)を前提
にできなければ、「私」と別の「私」を比較することはできないし、なにかの一般
的な概念に還元することもできず、「私」の代わりを誰か別の「私」がするなどで
きるはずもないのだから。
そのように「私」を捉えるために柄谷は、特殊性/一般性という概念に対して単独
性という概念を対置する。

続いく『探究2』のP129-P13では
 『ある個体の単独性と特殊性の区別は、つぎのようにも考えられる。たとえば、
  ある男(女)が失恋したときに、ひとは「女(男)は他にいくらでもいるじゃ
  ないか」と慰める。こういう慰め方は不当である。なぜなら、失恋した者は、
  この女(男)に失恋したのであって、それは代替不可能だからである。この
  女(男)は、けっして女(男)という一般概念(集合)には属さない。したがっ
  て、こういう慰め方をする者は、”恋愛”を知らないといわれるだろう。しか
  し、知っていたとしても、なおこのように慰めるほかないかもしれない。失恋
  傷から癒えることは、結局この男(女)を、たんに類(一般性)のなかの個と
  してみなすことであるから。』
という。

ここで柄谷は、恋人を例に単独性を説明している。
恋人同士にとってその相手は、他に取り替えの効かない"その人"である。
また柄谷も引用箇所の後でいっているが、恋人同士に限らず、親と子などでも同じ
ように、親にとって子、子にとっての親などそれぞれが他に取り替えの効かない
"その人"である事は間違いない。たとえ、どんなに鬱陶しい親でも、あるいはどん
なに言う事を聞かない子供でも。

さらにこの考えは恋人や親子に限定されるものではない。すべての人がそれぞれ、
他に取り替えの効かない"その人"なのだ。世界に、取り替え可能な人などいるはず
が無い。代替可能な訳が無い。人は取り替えの効かない唯一の存在として、それぞ
れが普遍としてある。
posted by 浅谷龍彦 at 22:07| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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