2009年07月20日

単純化、等置、有用性?

人は生きて行く中で経験した事を記憶し、次に同じような場面になった時には、前
の経験を知識として利用する。そしてそのような経験を繰り返し、知識を増やして
行く事で、より自己保存の確率を上げて行く。

ニーチェは『権力への意志』の515項で
 『「認識する」のではなく、図式化するのである、−私たちの実践的欲求を満た
  すにたるだけの規整や規格を混沌に課するのである。
  理性、論理、範疇が形成されるときには、欲求が、すなわち、「認識する」欲
  求ではなく、理解し算定しやすくすることを目的として、包摂し、図式化する
  欲求が、決定的となっていたのである・・・(類似なもの、同等なものへと調
  整し、案出するはたらき、−あらゆる感官印象が通過するのと同じ過程が、理
  性の発達である!)ここではたらいていたのは、先在的 な「イデア」ではなく、
  私たちが事物を粗雑にまた同等化してながめるときにのみ、事物は私たちにとっ
  て計算し取り扱いやすくなるという有用性である・・・』
としている。

人は複雑な自然を、その複雑さのまま理解する事はできない。そこで、ある一部分
だけを取り出して分析したり、逆に細部は省略して大きな全体を見てその統一性を
把握したりする事で、なにかを省略、単純化、簡略化する事で事物を”扱いやすく”
し、理解して行く。もちろん言葉を使って。

柄谷行人が『マルクスその可能性の中心』の序章で、ニーチェの「哲学者の本」か
ら次のような言葉を引いている。
 『なおわれわれは、概念の形成について特別に考えてみることにしよう。すべて
  語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、
  次のような過程を経ることによって、直ちにそうなるのである。つまり、語と
  いうものが、その発生をそれに負うているあの一回が切りの徹頭徹尾個性的な
  原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべだとされるのでは
  なくて、無数の多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないよ
  うな、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならない
  とされることによってなのである。すべての概念は、等しからざるものを等置
  することによって、発生するのである。一枚の木の葉が他の一枚に全く等しい
  ということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉
  の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形
  成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念
  は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとで
  も言い得るような何かが存在するかのような観念を呼びおこすのである、つま
  り、あらゆる現実の木の葉がそれによって織りなされ、描かれ、コンパスで測
  られ、彩られ、ちぢらされ、彩色されたでもあろうような、何か或る原形とい
  うものが存在するかのような観念を与えるのである。』

現実において「一枚の木の葉が他の一枚に全く等しいということが決してないのが
確実である」とニーチェは言う。それはもちろん「木の葉」に限らない。本当はこ
の世界に同じものなど何一つ無い。だが人は、あるものの「個性的な差異性を任意
に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって」、「等しからざるものを等置
することによって」、同一性を捏造して概念を言葉を作り上げる。それは真理だか
らではなく便利だから。

さらにニーチェは『人間的、あまりに人間的』の11項で
 『実際彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思い込んだ。言語の形成
  者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙
  虚ではなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄
  想した、事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、
  もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、真理をみつけたという信仰である。
  (中略)
  論理学もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の
  一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいてい
  る、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたし
  かにあるということ)によって成立したのである。数学に関しても事情は同様
  である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大き
  さの絶対的尺度などない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかっ
  たであろう。』
と書く。

ある事物に言葉を宛、対応させる事で、人は事物を理解し易くする。が、しばらく
すると、ある事物に言葉を対応させただけだという事を忘れ、まるで「現実のさま
ざまな木の葉のほかに自然のうちには「木の葉」そのものとでも言い得るような何
かが存在するかのような観念を呼びおこす」ようになり、言葉である概念の方が本
質であるかのような転倒が発生する。そしてその転倒と同時に同一性という観念も
生まれ、さらにその上に論理学や数学が成立するとニーチェはいう。
ラベル:ニーチェ
posted by 浅谷龍彦 at 16:18| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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