2008年12月23日

その可能性の中心?

ところで、柄谷行人は自身の批評方法についてどう語っているだろう?
柄谷は『批評空間3-2号』にある「『トランスクリティーク』をめぐる共同討議」
の中で次のようにいう。
 『ぼくは批評家としてやってきて、よく人をけなしていますが(笑)、それ
  はたんなんる行きがかりであって、けなすために書く情熱はないんですよ。
  ひとのことをやっつけるために調べるくらいなら、寝ていたほうがましで
  す(笑)。そういうわけで、ぼくは徹底的にカントとマルクスを褒めまくっ
  ています。(中略)
  だから、「柄谷はそう言うけれど、マルクスはやはりこうじゃないか」と
  言われたら、「それはそうです」と言います、「しかし、そんな当たり前
  のことをいって、何か面白いんですか?」と(笑)。そのよなくだらない
  ことを書くのが批評だとは、ぼくは思わないわけです。』

これは方法的に「転移」する事を意味している。柄谷はこれまでマルクス、漱石、
フロイト、ウィトゲンシュタイン、カントなどを論じてきたが、柄谷はこれらの作
家、思想家達を彼自身の課題の意味を「知っているはずの主体」と見なしている。

ジジェクによれば「知っているはずの主体」とは、
 『この謎は結局のところ転移そのものの謎である。新しい意味を生むために
  は、それが他者の中に存在していることを前提としなければならないので
  ある。これが「知っているはずの主体」であり、ラカンはこの主体が転移
  現象の中心軸であり錨であると考えた。分析家はあらかじめ知っていると
  考えられる。何を? 分析主体の症候の意味をである。この知はもちろん
  幻想だが、必要な幻想である。』
  (『イデオロギーの嵩高な対象』の第5章(P280))

つまり「知っているはずの主体」とは精神分析における分析者の事であり、ここで
は、マルクスや漱石、フロイトである。そして柄谷は自身を被分析者の位置に置き、
たとえばマルクスの著作を読む時、柄谷は完全なマルクス主義者として、マルクス
以上のマルクス主義者としてマルクスのテクストを読むのである。フロイトや他の
思想家についても同様だ。柄谷は彼等思想家が"全て"を知っているかのように見な
してそのテクストを読む。そうする事で、柄谷は、ジジェクの言葉でいえば「その
中にあって、それ以上のもの」をその思想家の中から読み解こうとする。

柄谷自身『マルクスその可能性の中心』の序章でハイデッガーを引いて
 『ハイデッガーはいっている。
  「思惟することが問題である場合には、なされた仕事が偉大であればある
   ほど、この仕事のなかで「思惟されていないもの」、つまりこの仕事を
   通じ、またこの仕事だけを介して「まだ思惟されていないもの」として
   われわれのもとに到来するものは豊かである。」』
としているが、ここでいう「まだ思惟されていないもの」こそ「その中にあって、
それ以上のもの」であり、これを柄谷は「その可能性の中心において読む」事だと
している。
posted by 浅谷龍彦 at 21:11| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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