2008年12月14日

信じる者は救われる?

スポーツでもなんでも何かで成功をおさめた人が度々口にする言葉が「信じ
てました」とか「信じていれば夢はきっと叶います」というような言葉だ。
それに対して「そんな事は成功したから言えるんだ」と反論する者もいるだ
ろう。確かに、何かの実現を信じて努力した人の全てが、その夢を実現でき
る訳ではない。だが信じて努力しなければ成功しない事もまた事実だ。だか
ら正確には、「信じて努力した者の中の"誰か"が成功を掴む」事ができる、
と言う事になるだろう。そしてより確実なのが、信じ無ければ救われない、
という事だ。
それからテレビのインタビュー等では「なぜ成功を信じ続けられたのでしょ
う?その理由は?」と言う質問が成功者に投げ掛けらる事があるが、その時
に「理由は無いけどなんとなく」とか「根拠は無いんですけど最初から自信
があった」等と言う答えが返される事もまた多い。これは嘘か?それとも何
かを隠しているのか?なぜ彼等、成功した者達は理由も無く信じられるのか?
しかしこの様な疑問は間違った問いである。何か理由があるからそれを信じ
ると言うのは、信じる度合い、信じる"深度"としてはまだ低い。本当に信じ
ているならば理由は不要なのだ!信じるための理由などもはや必要なくなっ
た時にこそ本当に信じているのだと言える。

ところで、自転車の乗り方やテニスでのボールの打ち方とか、人が覚える事
の多くは、その仕組みを理解するよりも先に体で覚えるものが多い。信仰に
ついても、パスカルは不信仰な者が信仰に入る入り方について『パンセ』の
第3章(P162-P163)で次の様に言っている。

 『君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰か
  ら癒されたいとのぞんで、その薬を求めている。以前には、君と同じ
  ように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちか
  ら学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、
  君が癒されたいと思う病から癒されたのである。彼らが、まずやり始
  めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべ
  てを行なうことなのだ。聖水を受け、ミサを唱えてもらうなどのこと
  をするのだ。そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚
  かにされるだろう。』

つまり信じるのに、その信仰の内容を理解する必要はなく、考える事をやめ
て"愚か"になり、もう既に信じている振りをしていれば、真似を続けて行く
うちにいつの間にか本当に信じている様になるのだとパスカルは語る。

また更にパスカルは『パンセ』の第4章(P174-P175)で
 『なぜなら、われわれは自分を誤解していけないからである。われわれ
  は精神であるのと同程度に自動機械である。そしてそこから、説得が
  行なわれるための道具は、たんに論証だけではないということが起こ
  るのである。(中略)習慣は自動機械を傾けさせ、自動機械は精神を
  知らず知らずのうちに引きずっていく。(中略)それはわれわれを、
  無理強いなしに、技巧なしに、論議なしに物事を信じるようにさせ、
  われわれの全能力をそれに傾けさせ、そのようにしてわれわれの魂が
  自然にそこに落ち込むようにするのである。』
と言う。(自動機械とはまるで無意識の事の様だ)

やはりここでもパスカルは、知る事無しに信じる事の有効性を説いている。
信じる理由は信じた後に付いて来る。あるいは信じていても、いつまで経っ
てもその理由がわからない、なんて事もきっと多くあるのだろう。けれども
やはり信じている人は信じている。彼らは信じているから信じてる。

最初の疑問に戻ろう。「信じる者は救われる」のか?答えはYes.
それは「信じて努力した者の中の"誰か"が成功を掴む」と言う事なのか?No.
「信じる者は救われる」。もし救われない者がいたとしたら、その者は"本
当に"「信じて」はいなかっただけである。逆に救われなかったと言う事が、
その者が「信じていなかった」事を証明する。従って「信じる」者は"絶対
に"救われる。

御後が宜しいようで。。。(笑)
posted by 浅谷龍彦 at 22:57| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 解体(心象) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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