2008年10月19日

「戦争」と「他者とのコミュニケーション」?

『探究2』のP237-P238で柄谷行人は、ルソーの『言語起源論』の次のような箇
所を引用している。
 『この野蛮の時代は黄金時代であった。というのは人びとが団結していたか
  らではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人だと思って
  いたという。そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知
  らなかったし、欲しがらなかった。彼の欲求は彼をその同胞に近づけない
  で、遠ざけるのであった。人びとは出会えば、お互いに相手を攻撃したと
  いってもよい。しかし彼等はめったに出会いはしなかった。いたるところ
  戦争状態が支配していたが、地上はすべて平和であった。』

この引用は、『探究2』P235での次の主張を説明するために引かれたものだ。
 『おそらく人間が本来共同体的であるということを疑った最初の思想家はル
  ソーであるといってよい。むろん、ホッブスのように「自然状態」から出
  発して、国家(共同体)の形成の必然を説いた者はいる。(中略)
  しかし、ルソーの場合、自然状態あるいは自然人は、共同体の自明性を疑
  うために提起されたのである。』

ここで柄谷は、ルソーのいう「自然状態」を「共同体」批判として読んでおり、柄
谷もまた「自然人」は互いに出会えば戦い、「戦争状態」にはなるが、そもそも
「自然人」はめったに出会う事はなく、分散して生きていたため「平和」だったと
いうルソーの認識を共有しているようだ。

そもそもコミュニケーション成立以前の人々は、当然1人1人バラバラで、コミュニ
ケーションが成立していないのだから意思の疎通もなにもない。さあこれからどう
やってコミュニケーションとろうか?という状況で、未だ敵か味方かの区別もない。
それをこれからどうやって識別していこうか、という段階だ。

ホッブスは「自然状態」について、『リヴァイアサン』の第13章(P210)で
 『《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
  これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
  共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
  にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
  ある。』
としている。

だが、ここでいう「各人の各人に対する戦争」とは、まだコミュニケーションが確
立される以前に、人々が悪戦苦闘しながら最初のコミュニケーションを成立させて
いく過程を表しているのではないだろうかと、僕は今考えている。「戦争」といっ
てもまだ人々は1人1人バラバラの状態なのだから、今、普通にいう戦争というより
は、ほとんどケンカのような争いか、闘争といった方が近いだろうと思う。たぶん
ホッブスはここで、「国家状態」と「自然状態」の対比のために人を国家に見立て
て「戦争」という言葉を使ったのだろう。

柄谷行人が『探究1』でいう「他者とのコミュニケーション」の光景と、ホッブス
がいう「自然状態」の光景とを自分の中で思い浮かべて比べてみると、僕には両者
の世界が非常に似て来るように思われる。なんの共通基盤もない「他者」同士が出
会って何らかの接触が起こるとするならば、それは殺し合いにはならなくても、少
なくとも「もめる」のは間違いない。そんなにすぐに打ち解けられるわけがない。
長い時間互いに相手を探り合うような事になるだろう。そんな「接触」だけが「コ
ミュニケーション」だとするのであれば、それを「各人の各人に対する戦争」といっ
てもさほど違うものではないのではないかと思う。

もちろんホッブスも「自然状態」では「各人の各人に対する戦争がつねに存在する」
とはしているが、常に人が殺し合っているといってるわけではない。

ホッブスは『リヴァイアサン』第13章(P210-211)の続きで
 『すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、戦闘
  によってあらそうという意志が十分に知られている一連の時間にある。だ
  から、戦争の本性においては、(中略)時間の概念が考慮されるべきであ
  る。(中略)戦争の本性も、じっさいの闘争にあるのではなく、その反対
  にむかうなんの保証もないときの全体における、闘争へのあきらかな志向
  にあるのだからである。そのほかすべての時は、平和である。』
としている。

つまりホッブスがいう「各人の各人に対する戦争がつねに存在する」状態とは
「たんに戦闘あるいは戦闘行為にあるのではなく、戦闘によってあらそうという意
志が十分に知られている一連の時間」の事なのだ。そしてこの「戦争」を「コミュ
ニケーション」と解釈するなら、それは互いに「コミュニケーション」を続けては
いるが、未だ共通理解が成立していない状態(コミュニケーション中)の事となる
だろう。

それからまたホッブスは、「闘争へのあきらかな志向」がない「そのほかすべての
時は、平和である。」ともしている。つまりホッブスが「平和」と呼ぶのは、「他
者」との「コミュニケーション」を拒絶した状態か、あるいはそもそも「他者」に
出会う機会自体がない各人が分散していて出会わない状態の事になる。

こう解釈してみると、ホッブス、ルソー、柄谷の「自然状態」の捉え方には共通す
るものがあるように思えるし、柄谷のいう「他者とのコミュニケーション」とシン
クロするように見えてくる。
posted by 浅谷龍彦 at 19:59| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 思索(自由) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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