ないかと思う。柄谷行人のいう「共同体」とは、共通の規則やルールを共有し、前
提としている組織やシステム、制度などといったものことらしいのだが、柄谷行人
はそこにある規則やルールをあらためて問い直す事を繰り返している。そして共通
の前提を取り払った後に現れる剥き出しのコミュニケーションについて語る。
柄谷行人は『探究1』のP228-P229で
『たとえば、二人で話し合っていれば−ふつう対話とよばれる−、一対一関係が
あるというわけではない。とうのは、この二人は、いわば第三者として、共同
の規則を前提しているからである。
私が対関係とよぶのは、共同的・一般的な規則がたんに、”事後的”にしか成
立しえないような関係のことである。(中略)
これに比べると、いわゆる対話には、明らかに他者はいても、《他者》はいな
い。いいかえれば、他者の”他者性”がない。そこでは、一対一の関係は、一
般的な他者との関係にひとしく、さらに自己自身との関係(自己意識)にひと
しくなる。そこで他者を認めるとしても、それはもう一つの自己意識でしかな
くなる。』
と書いとります。
つまり普段、人が交わしている会話は、もうお互いのことを分かり合った上で交わ
しているので、それは自分の分身と会話しているようなものに近くなっているとい
うことやね。きっと。それでそのような会話が成り立たない子供や外国人とのコミュ
ニケーションを例にあげて。。。
『探究1』のP10-P11では
『外国人や子供に教えるということは、いいかえれば、共通の規則(コード)を
もたない者に教えるということである。逆に、共通の規則をもたない他者との
コミュニケーション(交換)は、必ず「教える−学ぶ」あるいは「売る−買う」
関係になるだろう。(中略)
「教える−学ぶ」という非対称的な関係が、コミュニケーションの基礎的事態
である。これはけっしてアブノーマルではない。ノーマル(規範的)なケース、
すなわち同一の規則をもつような対話の方が、例外的なのである。だが、それ
が例外的にみえないのは、そのような対話が、自分と同一の他者との対話、す
なわち自己対話(モノローグ)を規範として考えられているからである。』
と書いとります。
ここでも柄谷行人が注視するのは、出来上がったコミュニケーションではなくて、
完成されたコミュニケーションが当たり前の事として忘れてしまう、成立以前の
「原初の光景」、コミュニケーションの「自然状態」といえると思う。
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