『探究2』のP237-P238で柄谷行人は、ルソーの『
言語起源論』の次のような箇
所を引用している。
『この野蛮の時代は
黄金時代であった。というのは人びとが団結していたか
らではなくて、離れていたからである。おのおのが万物の主人だと思って
いたという。
そうかもしれない。しかし誰も自分の手のとどくものしか知
らなかったし、欲しがらなかった。彼の欲求は彼をその同胞に近づけない
で、遠ざけるのであった。人びとは出会えば、お互いに相手を攻撃したと
いってもよい。しかし彼等はめったに
出会いはしなかった。いたるところ
戦争状態が支配していたが、
地上はすべて平和であった。』
この引用は、『探究2』P235での次の主張を説明するために引かれたものだ。
『おそらく人間が本来共同体的であるということを疑った最初の思想家はル
ソーであるといってよい。むろん、ホッブスのように「自然状態」から出
発して、国家(共同体)の形成の必然を説いた者はいる。(中略)
しかし、ルソーの場合、自然状態あるいは自然人は、共同体の自明性を疑
うために提起されたのである。』
ここで柄谷は、ルソーのいう「自然状態」を「共同体」批判として読んでおり、柄
谷もまた「自然人」は互いに出会えば戦い、「戦争状態」にはなるが、そもそも
「自然人」はめったに出会う事はなく、分散して生きていたため「平和」だったと
いうルソーの認識を共有しているようだ。
そもそも
コミュニケーション成立以前の人々は、当然1人1人バラバラで、コミュニ
ケーションが成立していないのだから意思の疎通もなにもない。さあこれからどう
やってコミュニケーションとろうか?という状況で、未だ敵か味方かの区別もない。
それをこれからどうやって識別していこうか、という段階だ。
ホッブスは「自然状態」について、『リヴァイアサン』の第13章(P210)で
『《諸政治国家のそとには、各人の各人に対する戦争がつねに存在する》
これによってあきらかなのは、人びとが、かれらのすべてを威圧しておく
共通の権力なしに、生活しているときには、かれらは戦争とよばれる状態
にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということで
ある。』
としている。
だが、ここでいう「各人の各人に対する戦争」とは、まだコミュニケーションが確
立される以前に、人々が悪戦苦闘しながら最初のコミュニケーションを成立させて
いく過程を表しているのではないだろうかと、僕は今考えている。「戦争」といっ
てもまだ人々は1人1人バラバラの状態なのだから、今、普通にいう戦争というより
は、ほとんどケンカのような争いか、闘争といった方が近いだろうと思う。たぶん
ホッブスはここで、「国家状態」と「自然状態」の対比のために人を国家に見立て
て「戦争」という言葉を使ったのだろう。
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posted by 浅谷龍彦 at 19:59| 千葉

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