人は何かを、それ”そのもの”をそのまま捉える事はできない。たとえば人は、み
かんを指して、
みかんは、黄色い、酸っぱい、軟らかいなどと特徴を並べ上げて説
明するが、ここで既に、みかん”そのもの”ではなく、みかんを、みかんが持って
いるいくつかの特徴(色、味、触感)に還元して説明しているのであり、この特徴
への還元がニーチェのいう単純化、図式化だ。つまり普段、人が具体的だと思って
いる概念がすでに抽象化の結果なのだ。
また人は簡単にもの(物、者)を数える。石が1つ、2つ。人が一人、二人...と
いうように。この数えるという行為自体は簡単だ。けれども、そこに働いている思
考はそれほど単純ではない。
何かを数えるには、まずその数える対象が同じもののグループに属している、とい
う認識が必要になる。数学的にいうと同じ集合に属するという事になる。
たとえば河原にいっぱい石がある時、その石の数を数えるとしたら、まずそれら河
原いっぱいにある物がみな石であるという認識が必要になる。その認識の次に、そ
のいっぱいある石を1つ、2つと数える事ができる訳だ。
ところがニーチェがいうように、石といっても実際は1つ1つ違う石で、同じ石など
1つもない。そうすると、同じものグループ=集合という認識が成り立たない。
”同じ”石などないのだから。
ニーチェは『人間的、あまりに人間的』の19項で
『数。−数の法則の発見は、いくつか同じ物がある(しかし事実としては同じ物
などない)、すくなくとも物がある(しかし「物」などない)という、もとも
とすでに支配している誤謬に基づいてなされている。多数ということの承認に
は、しばしば現れるなにかがある、ということがいつもすでに前提となってい
る、しかしまさにここにこそすでに誤謬が支配している、すでにそのときわれ
われは、ありもしない本質や単一性を仮構しているわけである。』
と書く。
数学は、量を扱う学問といわれる。現代では関係や構造を扱う学問といわれるよう
だ。どちらにしても数学は、あるもの”そのもの”には関心はなく、複数のもの同
士の関係、あるいはあるものの中にある緒要素の持つ構造などを扱う。逆にいえば、
あるもの一つ一つの質などは括弧に入れ、気にしないことで、複数あるものの間に
ある関係や関係の構造だけを明るみに出すのである。
つまり数学はあるもの(物、者)の質についてはなにも語れない。というか語るつ
もりもない。もちろんそれはそれで、多くの有用な認識をもたらすものであるのだが。。。
posted by 浅谷龍彦 at 04:04| 千葉

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